【Title:構成物質 (http://kb324.web.fc2.com/)】
跳ね上がる鼓動が随分と煩い。
息を切らしながら走る速度は落ちていくばかりで、心なしか焦り呼吸も徐々に荒くなっていく。立ち止まる拒否権は、背後から迫り来る野獣によって奪われたまま。ガウガウと大型犬が吠えるように、しかしその鳴き声はあまりに可愛げない凶暴性を秘めている。
「クソッ……!」
雨に濡れた土は泥臭く、恵みに溺れた草花は行く手を絡む罠と化す。見慣れた穏やかな山道は既に何処にもなく、天高くに昇る月も赤く笑い、己を飲み込まんばかりの怪物となり果てる。泥の中で微かに漂う異臭は、数日前に食われた肉の食べ残しか。
吐き気を抑え懸命に走る青年は、赤い髪を雑に掻き上げ、海色の瞳で僅かな視界を確保する。朝と昼、それぞれの海を連想させる瞳に疲れた色をちらつかせた。呼吸も息苦しく咳き込み、徐々に大きくなる足音と鳴き声に悪態を吐き捨てる。地獄から這い上がり、目を付けた対象が死ぬまで追い掛け回す勢いをつけてるのは、この辺では大して珍しくもない生物。……狼だった。
狼相手であれば、今まさに追い掛け回されている青年にとって『何とかなるはず』だった。買い物した時と比べ、随分小さくなってしまった紙袋を抱え走りながら、青年はとある噂話を思い出す。
数日前から発生している行方不明事件。青年が住む街からも何名か姿を消しており、行方不明者の共通点が皆山に近づいていたことだった。ある人は薬草を摘みに、ある人は獲物を狩りに、ある人は山を越えた先の街を目指しに。そしてそれらは、亡骸となり土に埋もれるオチだ。
この山でせいぜい注意すべき生物は狼ぐらいであったのだ。それ以外の生物が発見された報告もなく、終いには山の祟りだの村人染みた噂が流れたぐらいに困惑していた。
これら全ての元凶が、『狼』だった訳だが。
肉体が腐りかけ、理性を失くし、涎を長い舌と共にでろでろに垂らしながら。これだけ異常の姿を見せながら、ご立派に身体能力は底上げされた状態で迫り来る狼には、一般の成人男性だと歯が立たなかった。
棒で叩いても、蹴りを入れても、ぬるりと起き上がり牙を向け襲い掛かってくる。危険を察した青年は、身を翻して逃げ出し今の状況だ。
「追いつかれる……!」
足を止め、残りの体力を振り絞り蹴りを入れ凌ぐか。脈が異常に上がったまま思いついた思考に首を振る。追ってくる狼は一匹だけじゃない、三匹だ。そのまま餌になることは御免だが、現状の打開策があまりに貧困すぎる。
普段表向きに祈ることのない、カミサマに光を求めるか。地獄から天国へ引き上げるぐらいはしてくれるだろうか、そんな絶望的な思考がよぎる。
その時だった。
「伏せろ!」
鋭い声が前方から聞こえ、青年は訳も分からないまま反射的に地面へ飛び込んだ。全身を地面に投げ出した、目と鼻の先に丈夫そうな革靴が力強く踏み込まれ、鋭い風が頭上を通過する。刹那、軽快な打撃音と共に、先ほどまで獰猛な唸り吠え繰り返していた狼の悲痛な声が響く。
風の通過から寸秒、狼の声は一切耳に入らなくなり、山が静寂を取り戻す。まさに一瞬の出来事だった。
「もう起き上がって大丈夫だ」と静かな一言が近くで零れ、青年はゆっくりと立ち上がろうとした。しかし乱れた呼吸は未だ治まらず、酷使された足ががくがくと震え安定せず、再び崩れそうなところで手を強く引かれる。
想定外の救いに目を見開くが、ようやく青年は救世主の姿を捉えた。戦闘用に武装しており、何より目に付くのが両手で扱うのも困難に見える大きな鎚だ。持ち主は細く銀色の髪を一つに束ね、白い肌と夜明けのような瞳が特徴的で、その顔は女性のように整っていた。年齢は、青年とそう変わらないように見える。
「安心しろ、山の不浄者はあの三匹で最後だった。 落ち着いたら元の場所に戻れば良い」
「……ありがとう、助かった」
ただの物言わぬ肉塊と化した姿がちらりと見えたが、やがてそれも土に埋もれるのだろう。
青年が自力で立てるようになったのを確認すると、鉄の塊を軽々と持ち上げた男は踵を返す。用事がまだ済んでいないのか、帰るべき方角とは真逆の、山の奥地へ足を進めようとしていた。
澄んだ空気が青年の体中ゆっくり巡るようになり、霞みかけてた思考が戻る。恩人のことを、まだ何一つ知らないことに気付いて。
「待ってくれ! あんたの名前を、恩人の名前をまだ聞いちゃいない!」
そう叫ぶと、意外にも足を止めてくれた。流石に、助けてくれた恩人を何一つ知らないままで過ごすのは笑い話にもならない。武装に纏う鎖がチリリと高い音を鳴らし、数秒の沈黙を後にして口開く。
ふと気付けば、頭上から注ぐ淡い光は青白い本来の姿に戻っていた。
「柳火、冒険者だ」
武装した男は背中に影を纏いながら、濁りも打ち消す空色の瞳を青年へ向ける。ぽつりと名前のような単語を溢した直後、この山へ訪れた理由も明かすように後付けられた。冒険者は自由を求め生きる職業なのだと、青年が持ち合わせてる知識に掠める。
山の異変に気付いた誰かが、冒険者へ依頼を出したのだろう。住んでいる街で、冒険者に関する情報を聞いて回る、如何にも地位の高そうな男性を見かけた日があった。そしてその依頼を請けた彼は、武装してこの山へ立ち入り戦ったのだろう。暗くて見えなかったが、鉄の錆びた臭いが微かに鼻を突く。
「お前が今後も平穏に暮らしてるのなら、また会えるだろうな」
武装した男性はその言葉を最後に、木々の影に溶けていった。青年は追うことせず見送る。緊張感の消えない威厳な雰囲気は恐らく、依頼がまだ完遂していないのだと読み取ったから。
晒されていた脅威も地面の養分となり、ようやく静けさを取り戻した平穏の山が喜び歌う。賛歌は恐らく去る冒険者の耳に届かず、ただサラサラと風に揺れ流されてるのだろう。そんな生き様を見せつけられた青年は、目を閉じ天を仰いだ。
自由を欲し、刺激を欲した。人には自分自身が持たない物を見せつけられると、欲しがり羨む性格も存在する。どうやら青年はその傾向があるらしく、胸の底が脳裏が疼いて仕方なかった。細く息を溢す。
「あんたとの再会は、望めそうにないな」
青年は小さく呟き、やがてこの平穏を取り戻した山を後にした。
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彼が偽名を名乗り始める日。