裏路地商店 -葉月亭-

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B.Mercenary 04

 Day 209

 コンコンと乾いたノックが、部屋に響き渡る。
 気が付けば、窓辺にまで傾いてきていた西日は、殺風景な部屋を橙色に染めていた。昨日図書館から借りてきた、とある国の歴史書が思いの外面白く、夢中になっていたようだ。『黒の傭兵』ギルドの敷地内を窓から見下ろせば、仕事帰りの先人や、特訓終わりの訓練生が行き交っている。
 休暇もあっと言う間だ。昨日は護衛依頼から帰宅するなり、そのままベッドへと身を沈め、起き上がった頃には日も高く真昼を迎え、乾いたパンをかじりながら読書していると、もう日が沈みかけていた。ゆったりとした動作で、座っていた椅子から腰を上げる。昼頃から読みふけっていた本を、古いベッドへぽんと投げ出した。ドアの先から声はなかったが、催促するようなノックが再び鳴り響く。
 部屋でくつろいでいた赤髪の青年、柳火は溜め息を吐いてから、先ほどから叩かれているドアへと向かった。わざわざ部屋に訪れる客人は、大体決まってるようなものである。

 「ジェラルド、どうし、た?」

 ガチリ、とノブを回しドアを開けると予想通り、青い髪を黒い布で掻き上げた褐色肌の大男、ジェラルドが姿を現した。しかし、その表情はどんよりと沈んでおり、思わずかけるべき言葉を見失う。向かい側も伝えたい言葉が出て来ないようで、代わりに柳火の前に両手を差し出してきた。……否、泥だらけの大剣を見せてきたのだ。
 刀身一メートル以上あるはずの大剣は、ほぼ柄から先がバッキリと折れていた。思ったよりも大事な事態だと察知した柳火は、息を飲んで視線を投げ返す。今にも泣き崩れそうな男を、これ以上刺激したら、それこそ面倒極まりない。
 柳火の視線を受け取ったジェラルドは、目に涙を限界にまで溜め込みながら、震えている口をようやく開いた。

 「りゅうがぁ、武器屋までづぎあっでぐれよぉ!」

 その申し出を引き金に、ジェラルドは折れた愛剣を両手で持ちながら、わんわんと子供のように泣き崩れてしまう。普段は物持ち悪いジェラルドが、相当大切にしていたのは、柳火も薄々勘づいていた。武器屋を営む父が作った、最高傑作だと何度か耳にしていた。手合わせで大剣の丈夫さ、切れ味、重さ。それらに圧倒される度に彼は胸を張り、得意げに鼻を鳴らしていたのだから。手入れも欠かさなかったようで、その大剣は錆知らずだった。
 今やそんな誇らしげな姿はなく、顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、大粒の涙をボロボロと流している。縋りつかれた柳火には、その姿が弟と重なって映り、思わず顔をしかめた。胸がチクチクと刺さったように痛む。

 「……分かった。付き合ってやるから、そんなに泣くな」

 途中、何事かと言わんばかりに寮の住人が顔を出していたが、関わりたくないのかすぐに顔を引っ込めていた。武器屋へ向かう、その準備に取り掛かろうと自室へと振り返れば、輝かしい西日が山の向こうへと落ちている。今日は帰りが遅くなりそうだと、柳火はそっと溜め息を吐いた。



**********

 ヴァ―ロスで経営する武器屋は、傭兵ギルドから歩いて数十分と距離がある。町中を走る馬車で移動するのが一般的であるが、収入が不安定な二人は節約の道を選んだ。
 武器屋の店名は『黒土』と呼ばれており、お得意様『黒の傭兵』へ向けた武器を主に生産している。そんな黒土には半年ほど前に、一度だけ足を運んだことがあった。柳火はジェラルドを連れながら、記憶を頼りに突き進んでいく。一方同期は、廊下の件から少しずつ落ち着いてきたのか、目的地へ近付くにつれて、徐々に口を開くようになっていった。

 剣が折れたのは、ヒルダが指導する訓練に励んでいた時だったこと。二人一組となった相手が刺突剣、いわばレイピアで戦っていたこと。そして度重なる連撃を大剣で防いでいた時、耐え切れなくなった瞬間、愛剣が派手な音を立てて割れたこと。
 事の経緯を丁寧に、ぽつりぽつり呟くように説明され、柳火はただ静かに聞いていた。折れた大剣は、麻の布で丁寧に分厚く巻き、太いベルトで固定して担ぎ上げられている。柳火にはそれが、持ち主の肩に負担かかってるように見えた。恐らく、父親の看板も共に背負い込んでいるのだろう。

 「……わりぃな柳火、情けねぇツラを見せちまった」

 わしわしと気まずそうに自分の髪を掻く、大男の表情は反省が色濃く染まっていた。もし、壊れた剣がただの鈍であれば、災難だったと声を掛けていただろう。柳火はジェラルドから目を逸らし、「気にしてない」と一言だけ投げかけた。
 しかし無意識なのか、腰に下げた長剣の柄に手を当てていた。もしこの剣が壊れたとして、泣きじゃくるほどの愛着はないだろう。ただ使いやすいから選んだ。それこそ鈍同然ではないかと、小さく苦笑した。また次の新品を、壊れたものと同じ武器を手にするのだろう。
 だから、柳火は少しだけ、ジェラルドが羨ましいと思った。

 ヴァ―ロスの大通りには、大勢の人々で溢れ返っている。夕日が山の影に隠れ、仄かに残っていた夏の気配が、暗闇に飲まれて薄らいでいく。仕事終わりの酒を浴び、早々に出来上がった酔っ払いの踊りに合わせ、弦を弾く吟遊詩人。通りかかった酒場から陽気な声が聞こえてきた。きっと今頃、傭兵ギルドでもどんちゃん騒ぎになってることだろう。
 室内の明かりが窓から漏れて、夜道がまだ明るいと錯覚させていた。生温い風が、二人の頬を撫でる。肌を焦がすような、夏の暑さはもうない。湿気はまだ帯びているが、それもあまり気にならなくなってきた。

 「柳火」

 ジェラルドの声に、どうしたと返事をして視線を投げかける。厳つい顔付きの男は、幾分真剣な目付きを向けていることに気付いた。また風が吹き抜け、お互いの髪が揺れる。いつの間にか、柳火は足を止めていた。
 体が氷漬けにされかけた記憶が脳裏を掠め、微かに肩が震える。

 「俺さ、いつか誰にも負けねぇほど強くなったら、親父の跡を継ぐつもりなんだ」
 「……親父さんの跡って、鍛冶屋の?」

 突拍子もない話の変化球に、聞き手は目を丸くした。突然何を語り始めるのか、言葉が喉から飛び出そうになる。しかし親しい同期の顔があまりに真面目で、苦笑すらまとめて喉の奥へと仕舞い込んでしまった。
 ジェラルドが傭兵になった理由を聞いたのは、今回が初めてだ。だが、何故そんな話を引っ張り上げてきたのかは、検討がつかない。しかも特別に興味があった訳でなく、柳火自らが入団理由を語ったこともなかった。それでも一つだけ、分かったことがある。
 お互いに、打ち解けてきているのだと。

 「あぁ。黒の傭兵に入ったのも、剣や鎧を使う奴らを見て勉強する為でよ。その後はどっかの城の兵士や騎士、フレイリルに行きゃ手っ取り早いかもな。『白金の鎧』の仕事も度々こなしてんだ、多少優遇してくれりゃ万々歳だ」
 「傭兵の次は誇り高き騎士サマか、あんたには似合わないな」
 「なにもまだ決まった訳じゃねぇよ。……まぁ、確かに似合わねぇな」

 大男も自らが鎧を着こんだ、清潔な騎士の姿を思い浮かべたのだろう。少ない明かりの中でも分かる。ニヤリと笑う同期が、正直言って気色悪かった。
 フレイリルは、ヴァ―ロスから馬車で一週間ほどの距離がある国だ。フレイリルの治安を守っているのが、『白金の鎧』と呼ばれる騎士団で、柳火達が所属する『黒の傭兵』の上客でもある。そんな騎士団からの依頼を見つける度に、この大男は柳火に同行を頼み込んで、共に仕事へと向かっていた。そのせいか、騎士からは期待の傭兵として、徐々に顔を覚えられつつある。
 ジェラルドはフレイリルへ訪れ、城の内部で仕事をする度に、自分の名を売り込んでいる。そして今後もきっと、『白金の鎧』からの仕事を見つけ次第、彼は引き受けるのだろう。柳火は一人で納得し、だが少しだけ表情を曇らせた。堅苦しい雰囲気から窮屈に感じるのか、騎士団への苦手意識が拭えない。

 「だからさ、柳火」

 名前を呼ばれ、再び大男へと顔を向けた。夜を纏い、深みを増したブルーグレーの瞳は随分と真剣で、そんな友の姿に、柳火は小さく静かに息を吐く。緩やかに冷えていく空気が心地よく、しかし体中に巡る血は熱く感じられた。

 「俺が鍛冶師になった時には、最高傑作をお前に送らせてくれねぇか?」

 折れた大剣を担ぎながら、紡ぐべき台詞ではないだろう。傍から見れば、あまりに最低で不格好だ。親父の最高傑作を派手にぶっ壊しておいて、人に最高傑作とやらを送ろうなど、ロマンの欠片もない告白だった。出直して来いと、突き放す真似も出来る。
 けれど、柳火は気付いた。また無意識に、鈍の柄に触れていることに。あぁ、だからこんな、突拍子もない夢語りをし始めたのかと、ゆっくりと理解する。自分にとって特別に、大切に想う武器を持つとは、果たしてどのような気持ちになるのか。それを持たぬ者にとっては、その感情は未知の領域だった。

 「あぁ、待ってる」

 上機嫌な酒飲みの下品な歌声が、店の壁越しから聞こえて来る。仕事が終わろうと喧騒が消えない夜の大通りで、二人の傭兵は静かに約束を交わした。



**********

 それから少し歩いて、ヴァ―ロス唯一の武器屋『黒土』に辿り着く。出入口は路地裏にひっそりと佇んでおり、大通りからでは非常に見つけ辛い建物だった。太陽が山の奥へ帰った今では、路地にほとんど光が届いておらず、気味が悪い。そんな暗闇の中で、扉からこぼれる唯一の明かりを見つけると、柳火は少しだけほっとした。

 向かう途中から営業時間を気にしていたが、どうやら心配は不要だったようだ。先客である少年らしき人と、ガタイの良い男のやり取りが視界に入る。来客は小柄な体格だが、古びた焦げ茶のローブで姿を隠しており、唯一の判明材料は声だった。一方、ガタイの良い男は中背で、黒い髪を布で雑に巻き上げている強面である。元は前線に立っていたかのような鍛えられた肉体が、薄っぺらい衣類からよく見えた。後者が店主で間違いないだろう。
 扉より一歩先に踏み入れると、蒸して暑苦しい空気に触れ、鉄の臭いがツンと鼻を突いてきた。
 店内はそれほど広くはなく、カウンター越しのスペースを除けば、大人五人入るには厳しいぐらい。壁に掲げられ並べられている武器達は、一目で分かるレプリカであり、その種類を数えるには苦労しそうだった。

 「おぅ坊主、噂をすりゃなんとやらだ」

 新たな来客にいち早く気付いた強面の店主は、ニカッと無邪気な笑みを浮かべながら、顎をくいっと上げて示す。野太い声に反応して振り返る客は、柳火もよく知っている顔で思わず声を上げた。ローブから露わになったのは、サラサラと艶が見える黒い髪と、闇夜を思わす瞳。それらと対になる白い肌。整った顔立ちは幼さが残り、しかし表情は無に等しいせいか、いくらか大人びても見える。
 いつものローブと色変わりして気付かなかったが、黒土に訪れていた少年は、柳火やジェラルドと同期の傭兵、シリルだった。

 「ジェラルド」

 静かな声で、けれど若干慌てた様子でこちらに歩み寄って来る。柳火の後から入ってきたジェラルドは、突如飛び込んできた同期の影に、ぬおっと驚いた声を上げた。直後に「ごめん」としょぼくれた謝罪が、シリルの口から付け加えられる。
 小柄な同期が腰から下げている得物は、使い込まれたレイピアだ。ジェラルドの元へ駆け寄って来る時、柳火は一瞬を盗み見たが、どうやら少年は武器を買い替えに訪れた訳でないらしい。昨日振りの、感動の再会を目の当たりにした店主は、わざとらしく息を吐きながら、大きな手を差し出した。

 「青髪の兄ちゃん、武器をぶっ壊したんだろ。見せてみぃ」
 「なんで、おっさんがそれを知って」
 「お前さんのオトモダチから聞いてな、ちょっとした騒ぎになったらしいじゃねぇか」

 きょとんとしたジェラルドは、ニヤニヤと笑う店主を見上げて数秒硬直する。その様子に、柳火は思わずゆっくりと目を逸らしてしまった。騒ぎになるのも、無理はないだろう。寮の廊下では、わんわんと子供のように泣き散らし、平静を保っている間も酷く落ち込んでいた。大剣が壊れた場面を目撃した訳ではないが、この大男の性格を知る者であれば、誰だって心配する。調子すら狂わされること間違いない。
 同期が愛剣を壊した、そんな噂を聞きつけたシリルは、一足先に黒土へと駆け込んできた。だが早めに着いてしまった少年は、待てばいずれ来る確信を抱きながら、ここに留まっていたようだ。その間に、店主がシリルから上手いこと事情を聞き出したのだろう。流石商売する人は話術もお手の物だと、柳火は思わず感心した。

 「…………」

 黒土に訪れた本来の目的だ。ジェラルドは無言で担いでいた布を下ろし、それを手渡す。持ち主の表情は真剣そのもので、職人の鋭い目付きに切り替わった。片付いているカウンターの上に依頼品を置き、巻きつけた麻の紐を解いて、布を丁寧に捲り上げる。
 廊下で見せられた時と同じ、壊れた最高傑作がカウンターの上いっぱいに姿を現す。柄と刀身の間で、くっきりと残っているヒビ割れが、なんだか痛々しく映った。
 一方、今回初めて哀れな大剣を見たシリルは、表情の変化は相変わらず乏しいが、それでも僅かに顔をしかめたのが分かる。武器が壊れた原因は、一点集中の突き攻撃を浴びたせいだ。少年はサッと武器を隠すように立ち振る舞ったが、柳火は小さく苦笑して首を振る。あんたのせいじゃない、分かっていると囁きかけ、不安そうに見つめるシリルを落ち着かせた。

 「直せそうか?」

 緊張した面持ちのジェラルドは、沈黙に耐えきれず問いかける。折れた剣をじっくりと眺め、時々刻印らしき窪みへ視線を釘付けになり、また柄を注意深く観察していた。終始無言を貫かれているせいか、次に繰り出される言葉がまるで予想付かない。
 もはや神へ祈らんばかりに縋る持ち主には、目も当てられなかった。

 「こいつぁ……、相当骨が折れそうだな。修理するにゃ――」
 「っ、直してくれ!大切な剣なんだ、頼む!」

 依頼先の唸り声を聞くなり、ジェラルドはガバッと頭を上げ、必死な様子で頼み込む。だが相手は職人なりの壁を感じてるようで、依頼人の懇願を前に渋るばかりだ。何せ持ち主曰く、一流の鍛冶師が作った最高傑作であり、腕の立つ職人であればそれを語らずとも理解出来たのだろう。
 藁にもすがる気持ちで願う男は、修理出来るか、修理出来ないかを最も重視しており、修理期間や修理費には全く耳を貸していない。シリルもその点が気にかかったのか、一言を放つべきか飲み込むべきかとそわそわしている。これまで静観していた柳火は寸秒、考える素振りをしてから、口を開いた。

 「刻印を見て分かったんだろう?こいつはその息子さんだよ」
 「……、なに?」

 一瞬、鍛冶屋全体が凍り付くような沈黙が包み込む。説得に最適な材料は、使えるのならば頂点に立つ者を使うのが良い。職人の太い眉がピクリとさせて、ゆっくりと顔を上げた。
 傑作品に夢中だったのが、今度はジェラルドへと視線を移す。唐突に注目を浴びせられた大男は、表情を強張らせるが、ふるりと肩を震わせて、見世物の現状を凌いでいた。身分を偽装することは容易い世の中だ。相手の反応を読み取りながら、柳火はあと一押しの材料を突きつける。
 大体の人々は使える手段。そして真の名を隠す自分には、決して使えない方法だった。

 「こいつはジェラルド・クレイトン、将来は鍛冶師になって親父さんの跡を継ぐんだとさ」

 確信に満ちた堂々とした面持ちで、けれど冷静さも保つ調子で、柳火は口に笑みを浮かべる。息子である証明は、いくつか持ち合わせていることを知っていた。一流の鍛冶師が送った大剣が、何よりの証拠だ。
 しばしの静寂。外からの音もまるでなく、酒場からの喧騒も聞こえてこない。ただ、時計の秒針だけはカチコチと、低く短い音を毎秒奏でていた。言葉が去ってから、何度針が動いたかなんて覚えていない。長いようで短い時が流れた。
 その時だ。

 「クックク……、ガッハハハッ!」

 突如豪快に笑い出す店主に、傭兵達はびくりと注目した。何事かと怪訝な表情を浮かべるジェラルド、単純に大きな声に驚いているシリル、攻めた後で博打に出た結果を気にする柳火。誰もが次の言葉を待った。なお面白おかしそうに笑う男は、穏やかな表情で首を振る。……否、頷いた。

 「わぁったわぁった!兄ちゃんの大剣を直してやらぁ!」



**********

 契約証に書かれた修理費は、なかなかお目に掛かれない、とんでもない価格だった。『5000sp』と力強く記された数字に、開いた口が塞がっていない男が一人。柳火の背後で、未だに契約証の内容を確認している。
 シリルは同期の愛剣が修理されると知って、小さく息を吐いてから「よかったね、ジェラルド」と安心した感想を伝えるなり、さっさと寮へ帰ってしまった。本人は悪気がないみたいだが、傍から見れば興味を失った野次馬そのものだ。

 黒の傭兵との契約で割引されているはずが、それでも財布に重くのしかかっている。手持ちにあったギリギリの500spを支払ったジェラルドは、期間までに残りの金額を用意しなければならない。それに愛剣を暫くの間預けることになり、代わりの武器を黒土から選ぶ必要があるのだ。
 早速夢への架け橋がグラついているなと、柳火は壁を眺めながら淡白に思った。
 店内を囲うあらゆる壁には、実に多彩な武器が掲げられている。刀剣から槍や弓など、お手頃で一般的な武器は壁に飾りつけられていた。重量で物を言う斧やハンマーは、流石に床へと降ろされているが、専用の棚でしっかりと支えている。

 「柳火、お前も武器を見るのか?」
 「……ん、あぁ、少しな」

 そう問うたジェラルドは、新たな大剣を発見してはレプリカを手に取った。人間ならば、両手で持ってようやく扱える大剣が、この店では何本も置かれているようで、物珍し気にあれやこれやと触れては、使い心地を確かめている。だがこの男は、壊した愛剣を一筋に生きているのだから、きっとコイツじゃなければ駄目だと思わせる剣を選ぶのだろう。
 柳火が今扱っている長剣は、傭兵に所属して間もない頃、当時に丁度良く扱いやすい理由で購入したものだ。だがそれから日々鍛錬を欠かさず、体を鍛え技を磨いている内に、今の剣では物足りなく感じるようになった。
 折角の機会だ。そう思った柳火は、今の自分に合う武器を求めて、見慣れぬ剣を持ち比べる。やはり扱いに長けるのは刀剣類か。種類によって、扱い方も随分違ってくるもので、場合によっては輸入先の国によって作りが異なってくる。

 「なんだい兄ちゃん、お前さんは武器を買い替えるのかい?」

 大笑いしてから、すっかり職人から商人に転じた店主が顔を出し、上機嫌な様子で柳火に声を掛けた。商人は客への観察眼が鋭く、時々気分を持ち上げてくる。財布の紐を緩める手口に警戒しながら、品物を選び始めた。
 おもむろに手に取った剣から、丁寧に説明を受ける。ファルシオンソード、刀身が長い見た目に反して意外と軽く、一部の国では人気があるそうだ。次に持ってみたのはグレートソード、両手で扱う剣であり、ずっしりとした重みに腕がピリリと痺れる。ゆっくりと丁重に元の位置へと戻した。

 「……ん」

 また次の名を知らぬ刀剣へ、手を伸ばしかけた矢先。柳火はふと視界端に入ってきた物が気になり、ぴたりと手を止めた。いくつもの戦う為に作られ、並べられた武器の片隅に、道具がひっそりと息を潜めていたのだ。実際武器屋に置かれていることは少なく、どちらか言うと農家の道具として親しまれている。
 目線の先に気付いた店主は、これまた得意げに笑ってみせた。まるで「お目が高い」とでも言いたげな調子である。

 「おっ、兄ちゃんは気付いちまったか。そいつぁ戦闘用に作ったモンだ」
 「戦闘用……、道具と何が違うんだ?」

 商品棚の隅にはひっそりと、黒く大きな鎌が置かれていた。
 子供の背丈ほど大きさで、持ち上げると先ほどと同じように、手首がピリリと痺れる。笑う三日月は、黒と銀のグラデーションを描いており、一方月の手綱である長い棒は、全ての光を飲み込まんばかりの漆黒を纏っていた。農家ならば重労働となりかねないだろう。特殊な加工が施されているのか、比較的に薄く鋭い刃からは、期待を裏切らんばかりの重量を誇っていた。
 手持ちの道具へと意識を集中させる。微かに感じる魔力の気配は、今までにない冷たさがあった。その間、店主が丁寧に説明しているようだったが、喋っている認識は出来たものの、言葉がまるで頭に入って来ない。

 呪われているような気配はないが妙に惹かれて、どこかで心が躍っている自分に戸惑った。高鳴る鼓動を抑えて、細く長い息を吐く。これではまるで一目惚れのようだと、己自身に呆れた。

 「柳火、剣は買わねぇのか?」
 「ん、あぁ……」

 異変に気付いたか、もしくはいつも通りに気楽な感覚か、不意にジェラルドが声を掛けてくる。意識を引き戻された柳火は、曖昧に返事しながら武器から目を離した。
 傭兵の間では、取り扱う武器も人それぞれだ。刀剣類が多いものの、先人の中には弓を扱う者や、モーニングスターで豪快に戦う者がいる。それと向き合えるのならば武器の種類は制限はしないと、以前鬼指揮官から教えられたことを思い出した。
 間違いなく、戦い方も根本的に変わってくるだろう。それに、非常にとっつきにくい武器であることは明確であり、先輩の中でさえ扱っている人を見たことがない。だが柳火には、たった一つの好奇心が芽吹いていた。

 興味を持った。モノを傷つけることしか能がない無機物へ、愛着を持つことに。
 そして、少しだけ期待した。鍛冶師になるあいつの最高傑作とやらが、どのようになるのかと。

 果たして買うのか、買わぬのか。客のシンキングタイムにじっくり付き合う店主を横目に、柳火は大男へちらりと視線を投げた。少し前まで泣きべそをかいていたとは思えない、曇り一つない顔で同期へ首を傾げる。この先の選択がどうなろうとも、笑って見届けんばかりの清々しい表情だ。
 柳火は金貨と銀貨が混じる袋を取り出しながら、片隅に眠っていた大鎌を手に取った。

 「なぁ、帰ったらちょいと手合わせに付き合ってくれるか」



**********

 空気を切る音が、重く響き渡る。夕日が落ちてから数時間が経過し、すっかり寝静まった深夜帯。傭兵ギルドの訓練場には、二つの影が立っている。それらは定期的に見回りに来る職員でなく、どちらも訓練生だった。

 一方は、青い髪を布で巻き上げた大男。所々に傷が目立った古い鎧を身に着け、両手で持ち上げてやっと支えられるような、大振りの剣で構えを取った。鍛え上げられた太い腕の筋肉は、飾りでないことが一目で理解出来る。刀身の影から垣間見える褪せた青の瞳には、強い光が宿っていた。
 大男と対峙するのは、赤い髪の青年。相手とは正反対に、自身の身を守る物はまるでなく、古い外套をゆったりと揺らしている。半年ほど重ねてきた鍛錬のお陰か、筋肉もある程度ついているようだ。そして黒土で購入した大鎌を、早速慣れない手つきで構えている。スゥッと鋭く尖らせた青い瞳は、遠くの仄かな灯火を受けて、怪しく光らせた。
 再び風が吹き、土埃が巻き上げられる。刹那、対峙していたお互いが、ほぼ同時に地面を蹴った。

 青髪の大男、ジェラルドは大剣の切っ先を、乾燥した土に直線を描き、雄叫びを上げながら突進するように距離を詰める。剣先に触れた土が水気を含めた様子を、一瞬で確認した赤髪の青年、柳火は同じく距離を詰め、三日月で前方を切り裂いた。
 しかしその軌道は予想以上に大きく弧を描き、腕に電流が走ったようにビリビリと痺れる。危うく両手からすっぽ抜けそうだったのを、歯を食いしばり堪えながら振るった。金属が衝突し合った、甲高い音が一つ。しかし相手には一切の傷を付けられず、容易く軌道を変えられてしまう。バランスを崩したその隙に、ジェラルドはチャンスと言わんばかりにギチリと力を込め、新品同様の大剣を従わせた。

 「――っ!」

 その動作は、以前より明らかに速い。武器屋では妙に吟味していたのは気になっていたが、どうやら彼はあれよりも『軽い』大剣を選んだようだ。想定外の選択に、柳火は強く舌打ちする。あり余った勢いで刃を下に、大鎌を地面へと突き立てる。横薙ぎに迫りくる刃を、漆黒の金属棒で咄嗟に防いだ。全力で振るわれた大剣の衝撃がそのまま伝わり、悲鳴を上げた両腕に顔を歪める。
 黒土の鍛冶師と、この町の魔術師が思案して作られたらしい大鎌は、それはとてもとても扱い辛かった。全体重を持って振るえば、逆に持ち主が振り回される羽目になり、狙いがブレて大きな隙が出来る。かと言って自身が制御出来る程度の力で振るうと、武器を扱い慣れた者が相手では、簡単に弾き返されてしまうのが目に見える。

 手合わせとは言え、二人でやる時はいつだって手加減知らずだ。気を緩める場面を間違えれば、命も落としかねない。それは彼と初めて出会った日、早朝に酒場で一戦を交えた時から、何も変わっちゃいなかった。ありのままの実力勝負で、互角の力比べが楽しくて仕方ないと言いたげな調子だ。だが、それは――

 ふと、足元から這い上がって来る、異質の気配を感じ取る。
 魔術による特殊加工が、この大鎌に施されているのならば。柳火は激痛が走る両腕の先、握り拳へと強く集中する。金属に通る細い回廊へと流し込み、やがて秘められた力は突き立てた地面へと到達した。ほぼ同時にボコリと、地面が泥を吐き出し呼吸する。
 魔法は全体的に上手く扱えないが、そんな不器用な男が唯一使える小細工。足元から這い上がろうとした異質の正体は、錬金術により編み出された泥の使徒だ。

 「ハッ、こんな小細工が通用すると思うなよ!」
 「やらねぇ後悔よりゃあやって後悔だろ!」

 大鎌の刃に集った魔力は熱を帯び、瞬く間に爆発を引き起こす。魔力に溶けた泥は土へと還り、灼熱から逃れようとしたジェラルドは、一度刃を引っ込めさせた。爆風により巻き上げられた土埃は、周囲の視界を容易く奪い、互いの距離感さえも曖昧にさせる。しかしこれは、相手にとっては充分な時間稼ぎになったようだ。明らかに勝利を確信した男が、咆哮を上げながら大きな剣を振り下ろす。
 不味いと思った。血と共に巡る魔力の脈が熱を放ち、全身が熱い。脳が焼き切れんばかりに思考し、確実に決める次の手を探す。額から汗を流しながら、目と鼻の先へと迫る死を見つめた。そんな状況だと言うのに、腹の底から湧いて来るのは。
 今を生きてる実感である。

 ――死を予感させる戦いは、柳火自身にとっても、楽しくて仕方なかった。

 「もらったァ!」

 ガキンッ!と一際大きな金属音が、辺りに鋭く響き渡る。
 ジェラルドは更に押し込もうと体重を乗せてきたが、その動作はピクリとも動かず、力の行き場を失った手元がカタカタと鳴った。静寂が訪れてから数秒。冷えた風によって土埃がゆっくりと払われると、大剣の持ち主は目を丸くさせる。
 柳火は、地面に突き刺していた大鎌を持ち上げ、急接近する刃を完全に受け止めていた。つい先ほどまで、慣れない手付きで重い武器を持ち上げ、振るうだけでも精一杯だったはずだ。驚愕の色に染まっている相手の表情からは、そう読み取れた。

 「言ったろ、小細工は、もう見切ってるって」

 柳火は不敵に笑ってみせたが、余裕がないことは流石の鈍感でも伝わってしまったのだろう。
 足元から泥が這い上がってくる前。柳火はその時から、大鎌に施された一部の術式を書き換えていた。昨日まで使用していた長剣の重さに近付けて、無理のないレベルにまで魔力を削ぎ落し、改めて持ち上げてみれば何と軽いことか。しかしその発想は、ジェラルドがいつもより素早い動きを見せなければ、恐らくは閃くこともなかっただろう。
 柳火は瞼を寸秒だけ閉じて、細く長い息を吐き出し、再び酸素を取り込んだ。魔術式の書き換えなど、例え駆け出しを抜けた魔術師であろうと、そう容易く行えるものではなかった。毎秒二度三度の脈を打ち、襲撃を防ぐ両腕も先ほどから震えが止まらない。それでも不思議と踏ん張れるのは、一種の極限状態だからか。
 次はどう動くのか、神経を尖らせながらタイミングを窺う。攻めてくるか、あるいは防戦に切り替わり、形勢逆転が狙えるチャンスとなるか。
 吹き込んできた夜風が、少し涼しく感じた。

 「…………」

 不意に、両腕に重くのしかかっていた圧力がスッと消え、怪訝に思った柳火はゆっくりと顔を上げた。
 突然武器を引っ込めて何のつもりだと視線で訴えたが、そこには笑顔もなく真面目な顔して見下ろしている。灰色に溶けた青色の目に、柳火はびくりと体が強張ったのを自覚した。何もかもを見透かされているような、ありもしない錯覚に陥る。背筋が凍り付き、ドクンと鼓動が跳ねて、息が苦しくなって空気を吐いた。
 その拍子に両腕がだらりとぶら下がり、手から滑り落ちた大鎌は、がらんと派手な音を立てて地面に横たわる。殺気は引き、興奮は冷めた。もはや体を支える必要もなくなり、柳火は地面に力なく膝を付いて蹲る。

 「はぁっ……、はぁ……、うっ!」

 新鮮な空気を肺に流し込んでは出して、たまに咳き込んだ。生と死を分ける勝負事となると、締め付けられるような緊張感のせいか、よく呼吸を忘れてしまう。柳火にとって、癖のようなものだった。再び撫でてくる夜風が、心地よく感じる。体に帯びていた熱も、ゆっくりと冷やされていく。

 数分間の小休止を挟んだ、しばらくの静寂。
 呼吸も落ち着いてきた様子を見て、ジェラルドは大きな手を差し出してきた。寸秒経過してからようやく気づいて、ゆっくり手を取ると、ぐいっと力強く引っ張られた勢いで立ち上がる。間接的ではあるが、打撃を受けていた両腕の震えも治まりつつあり、足元に転がっていた大鎌を拾い上げた。
 立つ程度なら、問題なく支えになるぐらいの力は戻ってきたらしい。

 「しっかし柳火、それを持つと一段と死神になったみてぇだな」
 「……一段と?」

 先ほどの手合わせから、まだどこか感情が昂ってるらしく、ジェラルドの声は心なしか弾んで聞こえた。見上げてみると、あの時の真面目な表情は既になく、いつもの人懐っこい笑みで、ブルーグレーの瞳を輝かせている。
 一方、言葉の一部分に引っかかった柳火は、顔をしかめた。つまりこの大男は、以前から自分を死神のように思っていたらしい。思われていた本人は、今まで一言も聞いた覚えがなかった。どう言うことだと、目を鋭くさせて問いかければ、彼は全く悪気のない様子で口を裂いた。

 「大鎌っつったら死神らしいじゃねぇか」
 「違う、俺が聞きたいのはその前だ」
 「その前ぇ?」
 「いつからか分からんが、これを買う前から死神のように見てたんだろ?」
 「……あー、そっちか。だってよ柳火、お前が不利だと積極的に首を狙って来るじゃねぇか。怪我しても、痛覚がどっか行ってるぐれぇに怯む様子も見せやしねぇし」

 ジェラルドから受けた指摘にハッとなり、柳火は今まで手合わせした記憶を急いで掘り返す。数々の手合わせした記憶を思い返す途中、唐突に塩水をぶっかけられた恨みが芋蔓式の如くに蘇り、大きな溜め息を吐いた。当時は単なる悪足掻きと、無理矢理納得させていたが、本人の動機を今この場で発覚して、複雑な気分となる。万が一成仏してたら、どうしていたのだろうか……。
 そして肝心の戦い方には、大いに心当たりしかなかった。満たされる気持ちと生きてる心地が麻酔になってて、あまり自覚出来ていなかったようだが。指摘の通り、自身が不味い状況に陥ると、首を一点に狙う傾向が確かにある。首を斬り落とす気は全くないのだが、ジェラルドにとってその姿が、とても恐ろしく映ったらしい。今までの秘めていた感情が、どこか気怠い声色で伝わる。

 「俺ん中じゃあ、お前を『赤髪の死神』って呼んでっからな。だから、一段と死神らしくなったっつぅこと」
 「…………」

 一体、いつの日から呼び始めたのか。一瞬口を開きかけたが、止めた。多分その解答は、自分自身も知っている。出会い頭の一戦を交えてから、大して変わりはないのだ。
 そんなことよりも、柳火はジェラルドからの呼び名へと意識を向ける。『赤髪の死神』、それは紛れもなく自分に向けられている名で、センスはともかく妙に心に響いていた。握っている大鎌へ目をやると、仄かに光る赤のまだら模様が視界に映る。これを持って、首を刈り取る自身の姿を想像して、納得した。なるほど、確かに以前よりも死神らしく見える。

 「……へぇ、気に入った」
 「あ、何がだ?」

 柳火の唐突な肯定に、同期はきょとんとした顔で首を傾げた。最初は相手の疑問を正直に答えようと、口を開きかけたものの、自分の口から言うには気恥ずかしさがある。ならば今後、友のように夢を語る日が来た時、改めてその名を口にしようと決心した。
 だから死神は、今は小さい笑みを浮かべるだけにして、首を振った。

 「何でもない。それより明日に響くだろうし、寮に戻ろうぜ」

B.Mercenary 03

 Day 8

 声が聞こえた。女性の声と、赤子の声だ。
 開いた窓から白い光が降り注ぎ、夕日色に張り巡らせた壁紙を背に、一人の若い女性が穏やかに微笑む。色鮮やかに染まる赤く長い髪が、外から吹き込む風によってふわりと揺れる。薄く化粧しただけの白い肌と、整った顔立ちに、美しい女性だとぼんやり思った。白い腕で包み込むように、柔らかく小さな子を抱いている。外の晴天空を恋しそうに見上げ、やがて視線を室内へと戻した。
 女性の視界には、一人の男性が映っている。のんびりとロッキングチェアに腰掛け、膝の上に広げた分厚い本を見下ろし、……正確には文字目で追いながら茶を飲んでいた。時々小麦色の短い髪を弄りながら、空色の瞳を微かに細めている。
 幸せそうな家庭、この世界ではよく見かける幸せのようで、稀に見る空間であった。絵に描いたような空想だが、いざ目の当たりにすると、呼吸も忘れて惹かれ魅入ってしまう。幻術にでもかけられたかのような、素敵な光景だった。
 平和過ぎる時間に、退屈とさえ感じ始める。その時だ。

 「ねぇ、見て」

 何かに気付いた女性が、男性が座る椅子へとゆっくりと近寄っていく。嬉しそうな声は幸せに溢れ、同時に胸が締め付けられるようだった。どうしたんだい、微笑む男性へゆっくりと赤子を手渡す。慎重に、大切に、命が芽吹いたばかりの宝石箱を、夫婦揃って覗き込んだ。新たな発見に喜ぶ女性の声に、やがて男性にも笑顔が宿る。
 赤子の瞳を指差し、声が弾んでいた。双眸、異なる色を持つ子である。宝石のような輝きで魅せる瞳は、一見同じ青色だと思わせていた。「決めた」と、ハッキリした声で、女性は小さな命を改めて抱え直す。
 不思議そうに、恐らく大好きな母の顔を目で追って、口を開ける。あーぁ、と言葉にならない声を上げながら、心なしか喜びを表現してるようだ。その瞳は青、しかしよく覗き込むと確かに、鮮やかな空と、深い海が映し出されていた。

 「この子の名前は――」



**********

 「……はっ」

 忘れるはずもない名前を聞くことなく、幻想を払い除け意識を急浮上させ――否、あれは幻なんかではない。文字通り柳火は飛び起き、空気を肺に詰め込んでは咳き込んだ。額から汗が滲み、気付けば背中もぐっしょりと濡れている。目の端が湿っており、うなされ、泣いていたことに気付く。震える右手で顔を覆い、溜め息を吐いた。

 柳火は、夢で見た夫婦を知っている。三年前に、行方不明となった両親だ。赤子だった頃など、誰もが記憶がまるで朧気だと言うのに、名付けの日だけはやけに鮮明に、今でもハッキリと覚えている。生まれて一月経ったか経たずか、夏の幕開けに交わされた何気ない日常会話。そんな中で、青の双眸に魅せられた女性は、隠した名を付けたのだった。深い海で眠り、広い空を駆け抜ける、強く賢くあって欲しい願いを紡いで。
 再び、呻き声を漏らす。
 行方不明から三年も経てば、もはや誰もが生存を諦め、哀れみの目を向けられるものだ。両親共に一般人であれば、生還は絶望的だろう。何かしらの事件に巻き込まれ死んだ、よくある話だ。恨みを買われ暗殺された、家庭が裕福ならば、あり得る話だ。しかし質の悪いことに、二人は名前を轟かせていた冒険者だったのだ。受け入れることが出来ない。家を飛び出し、こうして傭兵として力を付けようとしている今でも、生きていて欲しい願いは変わらない。ギリギリと胸が締め付けられる感覚に、小さく舌打ちした。
 嗚咽を抑え、声を殺し、目を瞑る。
 一度だけ故郷に、死霊の大群が押し寄せたことがあった。飢えた死肉の群れ、汚染された魂、生前の知識に長けた死霊。その日は夕暮れ時、両親からは出かけるの一言で姿を消し、不安で眠れず待っていた朝方近くに、ただいまの静かな一言で帰ってきた。何事もなく、ただ少しだけ疲れた様に笑って、その日は家族全員揃って眠りについた。
 だから、諦めきれないのだ。

 まだ綺麗で狭い寮室の中、真っ新な小さいテーブルの上にぽつり、堂々と懐中時計が置かれている。開きっぱなしのそれに視線を投げやると、起きる予定の約一時間前に針を指していた。どうしたものかと、寝起きで回らない思考を巡らせる。夢とは正反対に、こちらの外は生憎の雨模様。窓の奥を見なくとも、外側を元気に叩きつける雨音で分かる。
 時刻は五時だ。目覚めは最悪だったものの、昨日は部屋に入るなり就寝してしまったせいか、案外寝不足による眠気はなかった。先日に見つけた、いつもとは違うパン屋にでも足を運んでみようか。柳火はそう考えたが、時間を改めて確認して、買いに訪れるにはまだ少し早いと思って止めた。ならばカフェで紅茶を楽しみながら、ゆっくりと時間を潰そうか。だが、外出する支度を整え終えてから、洒落たカフェでのんびり出来るほどの金銭を持ち合わせてないことに気付く。
 どうやらまだ、本調子ではないらしい。

 「……先人から、話でも聞いてくるか」

 柳火はぽつりと一人呟いてから、行く先を見失った足で酒場へ向かっていった。何せこの『黒の傭兵』に所属してから、まだ一週間しか経っていない。新人よりもずっと先に立つ、暇そうなベテランを捕まえて話を聞くのも、決して無駄ではだろう。
 故郷から目が届かないように、なるべく遠く遠くへと、長いこと馬車に揺らされていたのが一週間前までの出来事。金貨と銀貨を詰めた麻袋が、腹空かせたように萎れてくる数日前に、この『黒の傭兵』の噂が耳に入った。
 何でも、その傭兵団は入団から一定期間の訓練をさせ、それから国へと派遣する仕組みを作ったのだとか。生きる為の術を、戦う為の知識を、お金と共に得られるのだ。こんな好条件は他にないと踏んだ柳火は、目的地をヴァーロスへと切り替える。結果としては、諸々を支払い入団の手続きを終わらせ、無事寮へと行き着いた頃には、銀貨を入れる麻袋もすっかりしょぼくれていた。先日実践がてらにこなした依頼の分は、新たな服やら短剣やら、と備品を揃えていたらあっと言う間に使い果たしてしまう。

 先輩から知識を得て、見張りの仕事でも見つかれば万々歳か。柳火は寮を抜け廊下を渡り、ようやく覚えた施設の地図を頭に浮かべながら歩いた。その間に、何をどう聞くのが利口か、知っている情報を上手く引き出せるか、そんなことを冷静に考える。
 まだこの世の中、知らないことが満ち溢れているが、柳火が今欲しているのは生き残り、戦う術だ。いくら報酬が高くとも、医療費と命を吹き飛ばしてはお話にならない。だから出来る限り、今見つけた先輩から知識を得て、今後自分に降り注ぐ火の粉を払う、多くの手段を増やしておきたかった。
 一旦庭へと出て、目と鼻の先に立派な巨木が視界に飛び込んで来る。少し離れている寮の窓からでも、巨大な木の頭が見えたことをぼんやりと思い出した。だが迫力に湧き上がった感心も束の間、吹きつける風の冷たさと、叩きつける雨水に顔をしかめそそくさと、とにかく室内を目指す。暖かくなるにはまだ少し遠い、命が眠る冬の最中なのだ。

 「外套も買い替えないとな……」

 乾いた泥と煤がこびりつき、いくらか破けている茶色い外套を片手で握り締め、無理矢理紡ぎ直しながらぼやいた。自宅にあった古いタンスを漁っている時に見つけ、誰の物だったのかも分からないまま勝手に拝借した代物だ。防寒具としての機能はイマイチで、何より勝手に持ってきた罪悪感が重く圧し掛かる。そう思った矢先に、金欠の高い壁を見上げ、小さく苦笑する。新生活を迎える為の品物揃えは、まだ時間がかかりそうだ。
 庭を通り過ぎ、裏口らしきぽっかり空いた出入口へ潜り込み、吹き込む隙間風に体を震わせる。寒い、呟くと同時にこぼれる吐息は白い、長い川を作った。

 そして柳火はようやく、傭兵ギルドで比較的大規模な扉の前に辿り着く。酒場には一応営業時間が定められているようで、時間外である今はみっちりと閉められていた。多少の飲んだくれに絡まれることを覚悟し、その扉をゆっくりと前へと押し開けていった。

 「……ん?」

 明かりは点いている、けれど人の気配がまるでない。目当てとしていた先人はおろか、酔い潰れもなく酒の面影すらなく、期待外れの事態に柳火は一瞬戸惑った。受付は当然ガラ空きで、酒場のカウンター席も留守になっている。頭を捻って、あらゆる可能性を納得の材料に持っていくとしても、室内が明るい理由に結びつかなかった。
 しかし酒場の様子がどうであれ、貼り出された依頼書は我が身を晒したままだ。第二の目的である、仕事内容を覗いてから寮に戻ろうと、奥へと足を踏み入れた。その時だ。

 突如、背筋が凍り付くような感覚が襲う。背後、酒場のカウンター裏だ。殺気と共に、凄まじい速度で距離を詰めてくる。それを一瞬を黙視した柳火は、素早く腰から剣を引き抜いた。
 ――ギィィンッ!
 火花が散る。重く激しい金属音で静寂が容易く裂かれ、緊張感が全身に駆け巡った。
 刹那の静止。自身を襲ったのは同じ両刃剣、しかしその丈は一メートル以上の大剣に部類している。不意打ちによる接近の許しもあるが、それを抜いてもあまりに一撃が速く、重かった。息が詰まる。咄嗟に防御体勢を取ってしまったが、それは判断ミスだとすぐさま気が付いた。ガチガチと押し込んでくる力が、そのまま得物ごと抉りかねない強さなのだ。恐らく大剣を振り下ろす力は、ほぼ体重を乗せるような全力。ならば――
 柳火は不意に剣を大きく傾け、分厚い刃をするりと滑らせた。逸れた軌道は青年の読み通りに、既に身を引いた空を切り、相手の体がぐらりとバランスを崩す。褐色の大男だ、身長は下手すると二メートル近くあるだろうか。道理で力が強い訳だと、妙に納得してしまう。巨体の首へ、剣の切っ先を突きつけようと動こうと、一歩前へ出ようとして。
 踏み込むことは叶わなかった。

 「――なっ!?」

 冷たくザラザラとした、泥が絡みつくような感覚が足首を襲い、思わず声を上げてしまう。泥沼に嵌まったような、足がまるで動かせず、ぞわりと悪寒が走った。崩れかけた巨体はダンッと踏み込み、大剣を支える両手に繋ぐ、腕の筋肉がぐっと盛り上がるのを視界で捉える。不味い、そう危機を察したが、動きがあまりに制限され過ぎた。
 耐える術はない。力がある分、圧倒的に相手が有利だ。逃げる術はない。泥の枷によって、両足は既に動かせない。無防備を晒し続ければ寸秒後には、体も真っ二つにされてしまう。何故襲われているか、理由を聞く機会も与えられずに。鼓動が暴れ、血が全身を巡る。考える、何が出来るか、頭に言い聞かせた、問うた、考えろ。防ぎきれない、ならば先手を取れ。逃げられない、ならば立ち向かえ。
 直後、柳火は咄嗟に掌を広げ、それを大男の鼻先へと向ける。刹那、魔力が急速に集い、仄かに青緑の光が浮かび始めた。

 「ぬおっ!?」

 パァン!と割れた音と共に、大男は驚愕したまま数メートル後ろへと吹き飛ばされる。術者自身もその衝撃を食らい、体中に激痛が走り呻き声を殺す。足首を掴む泥が衝撃波を浴びると、ジワリと溶けて無くなった。やはり魔力が効いたかと、影で不敵に笑う。
 魔力の黙視が出来てから、一秒も満たない。掻き集められたエネルギーは、瞬く間に辺りへ鋭く弾けた。未熟の魔術師が、練習中によく引き起こす失敗、つまり魔力の暴発と同様だ。未完成の術のまま魔力だけ出力する。その後に起こり得るのは、敵味方共に吹き飛ばす先ほどの衝撃波だった。
 怯ませる目的で放った魔力だ。距離を取り、枷は外れた。自由を得た足で床を蹴り、突き飛ばした男へと再び距離を詰める。どうやら大男は、瞬時に得物で顔を庇ったようだ。あれほどの術を受けながらも、両足で全身を支える、尖った忍耐力は褒めるべき点だろう。しかし逆に、動きが鈍ってしまうのは頂けない。
 その間は二秒。長剣を両手で強く握り直し真横から、切っ先を大男の首筋へ向けた。今大男が持つ大剣の、切っ先との距離、角度からでは、決して振り払えない位置を取り、確実に降参へ持ち込む。先ほど魔法生物に足を掴ませ、逃走を許さなかった、あの時のように。

 「動くな」

 柳火はトーンを下げ、だがハッキリと忠告を短く吐き出す。たった一言で、ピシリッと凍てつくような緊張感が走った。大柄な得物を前に構える、青髪の男は忠告に従う。声も発することなく、冷や汗が額から一筋、肌に流れた。
 十数秒、両者に動きはなく、心臓だけが煩く鳴り続ける。やがて、それまで一ミリも動かなかった大剣が、床へ引き寄せられるようにゆっくりと刀身が倒れ、がらんと喧しく響いた。そして大男は堪えるように震え出し、突如弾けたように笑い出す。異変を感じ取るものの、柳火は長剣に込める力は緩めず眉だけひそめた。

 「ガッハハハ!俺の負けだ負けだ!悪りぃな、奇襲かけちまってよ」
 「…………」

 得物も床に伏せており、他に武器を持ち出すこともなく、大男は両手を上げてコーサンだと笑う。先ほどまでに向けられた殺意もなく、柳火は一瞬だけ疑いをかけたが、確信を得ると切っ先を引っ込めた。ブルーグレイの瞳が、人懐っこく輝かせていたからだ。そう怖い顔すんなよ、と言われるまで気づかなかった。眉間にシワを寄せていたようで、それを紐解くと適度の疲労感がついてくる。
 貼り出された依頼書を下見しに、ついでに先輩からの話を聞こうと訪れたはずが、どうしてこうなってしまったのか。とんだ苦労にも気付かされた柳火は、静かに溜め息を吐いたのだった。



**********

 時刻が七時を回ると、ガヤガヤといつもの賑わいを見せる酒場があった。壁に掲げられたボードに貼り出された紙を、次々と剥がしては手続きへと取り掛かる傭兵達の姿が映る。ある人は護衛の為に待つ依頼人の元へ、ある人は戦争する国の元へ、ある人は警護の穴埋めに向かって、出入り口の奥へと消えた。
 新米にも出来そうな仕事を探しに来た柳火であったが、結局収穫はなく、代わりに人の金で朝食を摂ることにしたのだ。貧弱な麻袋の中身を見せた時の、哀れんだ表情が脳裏にチラつき、食事を通す喉に若干の痛みを感じた。

 大男は、ジェラルド・クレイトンと名乗った。
 話を聞く限り、彼は柳火と同期にあたる。これまでに何度か同期との手合わせをしており、その度にジェラルドが圧勝。しかし、勝者は手応えのなさに退屈していたらしい。そしてここ最近、冴え渡る剣技に注目されている新人がいると噂を聞きつけ、その新人が柳火だったのだ。
 大男は非常に満足気に、ぶつけられた疑問に全て、片っ端から答えてくれた。初めは依頼の先取りを目論んでいたものの、目ぼしい仕事が見つからず肩を落としていた時に、廊下からの物音に気付く。反射的にカウンター裏へ隠れ、侵入者が同業者ならばそのまま裏から出ようと、万が一泥棒が入ってきても奇襲をかけられる。そう考え侵入者を確認した矢先に、柳火の容姿を一目にスパークしたのだ。聞いていた噂、特徴が合致していると。
 好機だ、湧き上がる興奮を抑えて、そしてジェラルドは考えた。奇襲をかければ、相手は本気で抵抗するだろう。湧き出ていた殺気も、刺激すれば返ってくると思ったこと。ただし、反撃に殺される可能性は考えていなかったようだ。

 「んだよ、相当腹減ってたんだな、お前」
 「……数日、安いパンと水で凌いでたからな」

 先日の護衛で稼いだ金は、報酬の半分以上を叩いて購入した短剣によって消えた。それからずっとだ、味気ない硬いパンを貪り、水気を無理矢理含ませて腹を満たして。空腹を満たせど、所詮はパンと水。いい加減飽きてきた中で、ジェラルドから差し出された「奢り」の手を、掴まざるを得なかった。ジェラルドは決して裕福ではなかったが、手合わせを通し、満たされた気持ちに感謝を込めた好意だった。
 雑に彩られた大盛りのサラダを平らげ、香ばしい匂いが食欲を刺激した揚げじゃがは、塩を振ってから口いっぱいに頬張る。こんがりと綺麗な焼き色を見せていた、ぎっしり詰まった大きなミートパイも完食済みで、今は大盛りサラダをおかわり注文し、出来上がりを待っていた。しかしこれだけ食べても、脳内での計算ではまだ銀貨三十枚もかかっていない。
 やや細身に見える青年であったが、食事を前にすればたちまち皿が空になっていく。その様を向かい席でずっと眺めていた大男は、事あるごとに呆れてぼやいていた。

 「後先考える奴ぁ、時々何考えてんのかわっかんねーな。短剣に割く金もねぇはずだろ?」
 「自分の命と比べりゃ、これくらいお安いもんだ」

 「餓死しちゃお話にならねぇな」と、笑い飛ばすジェラルドであったが、寸秒過ぎた後にふっと真面目な表情へ戻す。護身用の短剣へ銀貨を傾けるほど、理由があるのだと読んだらしい。ガヤガヤと喧しい周囲から逃れるように顔を近づけ、内緒話をするように、口元に手を当てる。「何かあんのか」と、潜める声に答えるべきか一瞬だけ悩んでから、柳火は頷いた。
 護衛から帰る途中に出会った、年齢が六十になる商人から聞いた話だ。ヴァ―ロスに訪れて間もなかった柳火は、町に関する情報も人々から仕入れていた。一体ここはどんな町なのか、何か特産品があるのか。歴史から最近の出来事まで、知っていることや聞いたことまで、暇潰しも兼ねて情報を引き出す。
 商人の口から出てきたのが数ヶ月前、吸血鬼に襲われた話だった。けれど未だ居座ってるかは分からない、もしかすると既に討伐されてるかもしれない。能天気に話す商人だったが、柳火は無視出来ず、どうやって危機から逃れたかを問い出す。そしてその際に購入したのが、純銀で作られた短剣だった。

 「被害出してりゃ、とっくに殺されてんのかもな」
 「そうだな、……そうかもしれない」

 利益の天秤にかけたのならば、頭痛を起こしかねない失態だ。しかし柳火は、後悔のない面持ちで頷き、言葉を曖昧にした。吸血鬼が現れ、被害が出るのはそう珍しいことでない。だからこそ、用心するべきだと直感が働き、それを信じた。
 その時、話が切れたタイミングでおかわりした大盛りサラダが運ばれてくる。隣町から直送された、新鮮な野菜をふんだんに使われ、たっぷりとした彩り豊かな栄養を、柳火は早速取り入れ始めた。先ほど空にした品物の皿を積み重ねておきながら、未だに勢いが衰えない。起床し始めた傭兵達の朝食注文に、ウェイトレスやウェイターは誰もが忙しそうにしていた。
 サラダをフォークで突き刺し、シャキシャキと頬張りながら辺りを見渡す。大半が寝起きの軽装姿であったが、中には既に武装し、依頼書の前で立ち尽くしている者の姿もある。カチカチと皿と金属の音を鳴らし、知人と談笑するテーブル席も多い。退屈そうにボトルとジョッキを並べる者は、今日は不在のようだ。

 「なぁ、リュウカっつったっけ?」
 「……ん、なにか」

 呼ばれた名前に一瞬だけ反応が遅れて、柳火は視線を前に戻した。周囲の騒がしさにより、声が聞き取りづらい状況だ。無理もないと言った素振りで大男は苦笑する。フォークをカチリと皿に置いて、水がたっぷり含まれたグラスに手をかけた、その時だ。

 「我ら『白金の鎧』の団長、ハーマン様がお見えだ!」

 ジェラルドが何かを言いかける前に、突如入口の方角から張り上げた男の声が飛んできた。開かれたドアは乱暴に壁へ叩きつけられ、ドカンと爆音を響かせる。それまで騒がしかった酒場の中も、時が止まったようにしんと静まり返っていた。
 入口から現れた侵入者は文字通り、洒落た銀色の鎧を着込んだ者が数人。頭も全て覆う甲冑は、ガチャガチャと、喧しく金属を鳴らしながら綺麗に整列するなり、お偉い様らしき人物を出迎える。雨の中ご苦労なことだ、と柳火はぼんやり思っていたが、潤いに流し込んでいた喉が、一秒だけ止まった。
 淡い金色の髪と白い肌、騎士と言うにはあまりに似つかわしくない容姿を持つ男だった。短い髪に多少の水気が含まれていたが、特に気にしていない様子ようだ。着込んだ銀色の鎧も、より繊細な作りと模様が刻まれ、上位に立つ者と主張されている。年齢は三十前半辺りだろうか。若くして厳かな雰囲気を出してる様子から、相当な実力者と思って良いかもしれない。
 水を飲み終えたグラスを置いても、何故か目だけは、離せなかった。

 「ハーマン様、本日はどういったご用件で?」

 受付嬢の声が、やけに大きく響いて聞こえる。しかしそれに返答する若き団長の声が、まるで耳に入らなかった。ぼそぼそと伝えているのか、それにしてはにこやかに接している。緊張を走らせていた酒場であったが、時計の秒針が進むごとに、緩やかではあるが賑わいが戻っていった。
 怪訝な表情を浮かべていたのは、ジェラルドも同じだったようだ。若き騎士に釘付けとなり、状況を飲み込めていない様子に気付いたのか、見知らぬ男に声掛けられる。依頼に出る前だったのか、軽鎧をまとって得物も携えていた。

 「よぅ、あんた達は初めてか、『白金の鎧』を見たのは」
 「何なんっすか?あのおっかねー雰囲気かもしてる奴ら」

 警戒する新人の声に、先輩面した青年は柳火に一言了承を得てから、隣の席へと座る。武装はしているものの、依頼までまだ時間はあるらしく、快く質問に答えてくれた。
 『白金の鎧』とはヴァーロスから馬車で一週間、馬で駆ければ三日ほどかかった先にある、フレイリルと呼ばれる国で結成された騎士団である。普段は国内の治安を守る為に動き、そして傭兵ギルドへ訪れるなりして、仕事を分け与えているようだ。距離はあるが付き合いも長く、積み上げてきた信頼から、そこそこの高額で雇われている。つまり騎士団様と傭兵の間では、お得意様と言う訳らしい。
 続けて話す先輩曰く、国同士の戦争にも稀に助力しているようで、戦場に出てもらう依頼もされたことがあったのだとか。今は国同士、穏便な解決へと向かってるらしく、仕事も少ないみたいだが……。胡散臭さから寄り付かない人もいるよと、先輩は苦笑を溢す。だが、その印象は最初だけで、徐々に打ち解ける人も多い。
 そしてこの日、綺麗な鎧を雨と泥で濡らしてきたのは、体調不良によって人手が足りず、その代わりをわざわざ募集しに来たようだ。

 「確か、今年になって入ったばかりの新人も募集してたっけ」

 君達も見てみたらどうだい?朗らかに笑いながら、一通り喋りつくした青年はゆったりと立ち上がる。壁に掲げられた時計へと目を移したことから、もうすぐ時間なのだと察しがついた。じゃあね、とひらり手を振った青年に、柳火はありがとうございますと一礼する。
 すたすたと去った先人を尻目に、柳火はジェラルドと顔を見合わせた。既に、相手は人懐っこい満面な笑みを浮かべている。何だか嫌な予感がして、皿に置いていたフォークを再び手に取ろうとした。

 「柳火、受付に聞いてみようぜ!」
 「まぁ待てって、まだサラダが残って――」
 「んなことしてらぁすぐ埋まっちまうって!」
 「せめてあと一口、腹が減っちゃ戦が出来ないとか言うだろ」
 「お前も金欠なんだろ?そんでもって、報酬も美味いんなら早いもん勝ち!ほら行くぞ!」

 ガバっと立ち上がると、ジェラルドはその勢いあるがまま柳火の首根っこを掴む。フォークを床に落とし、バタバタと抵抗する青年を引きずり出す。その力は簡単に解ける訳がなく、外套ごと掴まれ首が締まり、思わずぐえぇとカエルが潰れたような声を漏らした。落ち着きない同期だと内心舌打ちしながら、結局歩調を合わせて自らの足で歩き始める。
 確かに、今の自分は金欠に陥ってる、その点は何も言い返せなかった。味気ない食事も飽きてきたところで、これもまた思わぬ好機だろう。しかし食事への感謝も忘れず、丁寧に残さず頂く主義でもあるのだ。後で文句を垂れ流そうと、心に固く誓った。

 ばたばたと忙しなく、ウェイターと同業者を掻き分けながら受付に向かう。潜り抜けられた人の顔は、迷惑そうだったり、驚いていたり、呑気に笑っていたり。そんな中でふと、ハーマンと呼ばれる騎士団長と目が合った。銀色の双眸で、穏やかな笑みを浮かべて。一見、美しい人だと思った。だがその笑顔が、ただの微笑みのように見えなかった。それを不思議に思って、柳火は一瞬だけ歩みを止めてしまう。行方不明になった、自分の父親と姿を重ねているのだろうか。彼は騎士ではなく、魔術師だったはずだが。
 猪突猛進な大男へ視線を戻すと、部下が騒がせたお偉いさんに気付いてなかったのか。ジェラルドは、既に受付嬢と食い気味に会話を交わしていた。

 「よっしゃあっ、柳火!早く来いよー!」
 「…………」

 汗が流れる白熱した交渉に、どうやら半ば強引にもぎ取ったらしい。喜びに大はしゃぎする大男の声。そして呼ばれた自分へと、一斉に視線が集まるのを感じた。勘弁してくれと、心の奥底で深く長い溜息を吐く。
 もう一度だけ、騎士団長の行方を確認してから、柳火は仕事の受付カウンターへと歩き出した。

B.Mercenary 02

 Day 135

 時刻は真昼。
 太陽は高熱の光を発しながら大地へ、人へと嫌でも恵みを刺していた。サラサラと木の葉を鳴らしながら、吹き抜ける風も心なしか生温い。夏の直射日光は堪えるもので、柳火は熱が篭る室内から抜け出していた。傭兵ギルドの裏庭に立ちそびえる大樹の下、聞いた話によると、この大樹は今でも成長を続けているらしい。高さ十メートルはあるだろうか。巨大な樹の下、心地の良い日陰へ誘われ釣られるように移動して、そこでようやく気付く。
 先客がいたのだ。背中にまで伸びる、黒く長い髪を一つに縛り、影に紛れるような黒く深い瞳。それらと正反対に肌は白く、仄かに涼し気な薄水色のローブを着こなしている少年が、贅沢にも日陰を独占していた。古く分厚い本の背を、折り曲げた膝頭で支えながら、すらすらと文字を目で追っている。柳火は、彼を知っていた。

 「シリル一人だけの貸し切りじゃないか、誘ってくれたって良かったろうに」

 再び風が吹き抜け、日を遮る影は揺れて踊る。予め気配を察していたのか、ゆったりとした動作で柳火の方へ顔を上げるが、特に言い返す言葉もないのか、すぐに本の世界へ戻ってしまった。柳火はシリルと呼ばれる少年の隣へ、座り際に暑くないのか一言聞けば、「別に」とぶっきら棒に返される。だがそれに対して何の感情を抱くこともなく、大きな木に寄っかかりくつろぎ始めた。
 シリルは柳火ともう一人、ジェラルドと同期であった。昨日のような真っ直ぐだけを見て突っ走る、どこぞの猪突猛進とは違い、彼は非常に広い視野を持っている。魔術に関する心得ているようで、柳火は彼に近づこうと試みている最中だった。だが、かれこれ季節一つ分の月日が経っているが、彼について知るものはまだ少ない。

 「寒いより、ずっと良い」

 シリルは文字の羅列から目を逸らしながら、ぽつりと呟いた。
 ヴァ―ロスから遥か北方面へ、馬車で片道ひと月走らせて辿り着く雪国ピブリノア。そこがシリルの出身地だ。馬車でそれほどかかるとは言ったものの、大体は激しい吹雪に見舞われ、時期が悪ければ辿り着くことさえ困難になる。だからピブリノアを通る馬車は、お得感漂わせる期間限定なのだ。
 彼は激しい吹雪に閉ざされた国の、貴族として生まれ育ったと言う。だが傭兵の間では、小さな町から稼ぎに来た家出少年として話が通っていた。本人曰く、親と大喧嘩し、立派な屋敷から白銀の世界へ飛び出してきたのだとか。
 何故出身地を明かさないのか、当時告白の場で耳を傾けていたジェラルドに問われると、シリルは溜め息混じりに首を振った。傭兵は金好きだが、貴族嫌いが大半だろうと。万が一知れ渡ってしまえば、金好きの傭兵が家出少年を引き渡すのも想像に難くない。しかし貴族と言う割には、潔白な衣装に泥が付着しようとお構いなしで、傍から見ればただ顔の整った平凡な少年にも見えた。
 謝る気持ちも戻るつもりも、今はまだないようだ。

 日陰で心地良くなった夏風が、二人の髪をふわりと揺らした。柳火は持参した本を開き、文字を目で追い始める。時々他愛ない一言二言を交わすが、大半の時間は各自で文字の世界へ入り浸っていた。
 訓練場方面からは、金属同士が激しく衝突する音が響いてくるものの、もはやそれも慣れてしまった。妙にやかましい同期は、今朝の遅刻で散々怒られていたのを見かけたっきり、以降の行方を知らない。恐らくどこかで、歯を食いしばりながら頑張っていることだろう、自業自得だ。

 「昨日」

 訓練場から度々響き渡る、武器同士の衝突音と重なってしまえば、掻き消されていたであろう。聞こえてきた短く静かな声に、柳火は読書から意識を切り離し、シリルへと視線を向けた。そこにはいつも眠たげに垂れた黒目がなく、代わりに珍しく好奇心を疼かせた瞳に出迎えられる。
 彼が暗い瞳に好奇心を宿すと、次に飛び出す言葉はおおよそ予想が出来た。興味の対象、辿り行き着く思考が、共に似ているのだから。それに、口がマシュマロのように軽い奴からも聞いたのだろう。

 「時空魔術、見たって本当?」
 「あいつは間違いならよく言うが、必要以上の嘘は言わないからな」

 少年らしく目を輝かせるシリルの問いに、柳火は苦笑しながら返答する。では実際どんな魔術だったのか、少年の口から続いたその質問に、目撃者の一人は静かに頭を抱えた。

 昨日の出来事を思い返してみても、大した感想は出て来ないのだ。術式により時間を押し込まれた物体は、今から未来へ移った。青白い光に包まれたかと思うと、秒針一歩二歩先へ送り出された瞬間、ワインボトルは跡形もなく消えたのだから。贈り物が今から未来へ移った、証拠もない。瞬間移動した、では語弊が生じるだろう。
 実際、もう一人の目撃者であるジェラルドもただぽっかりと口を開けただけで、次には首傾げながら微妙そうな顔をしていたのだ。店員を前に、馬鹿正直に溢した「実感ねぇなぁ」と寂しげな感想に、同感せざるを得なかった。突如極寒を迎えた財布を握り締める、ジェラルドの姿は哀愁さえ漂わせていたが、これも少しは救われた方だ。値切り交渉に、柳火は文字がワイルド過ぎる論文のいたる箇所を、持ち合わせている語彙を捻り出して最大限に褒めちぎったのだから。大男の財布は、同期の慈悲により銀貨二百枚が戻ってきた。

 当時の感想を言いあぐねていた柳火に、少年は大体の結果を察したのか、別の質問に切り替える。

 「術式は?」
 「金属の装置があるだけで何も……、多分装置の裏側に書かれてる」
 「レポートは」
 「字が汚過ぎて、術式になると更に難読で全く……、ってジェラルドの奴そこまで話したのか」
 「値切り交渉、凄かったらしい」

 嘘偽りない事実が知れ渡ってることに、柳火は大きく長い溜め息を吐いた。論文を褒められ気を良くしたのか、時空魔術を操る店員からは大変気に入られたようで、次回の来店でサービスすると手書きの券を渡されるわ、同期の大男からは感謝の気持ちに泣きつかれるわ。シリルがあの場に出くわしたら、彼は間違いなく他人の振りしてその場を後にしていただろう。
 明らかに柳火をからかっていた。シリルは表情の変化がやや乏しいが、付き合いがあると徐々に分かってくる。先ほどよりも、声が少し弾んでいるのだと。「勘弁してくれ」と、柳火はまた溜め息を吐いて、面白がってる同期を力なく睨んだ。
 結局、贈り物とやらは生き辛い世の未来へ託され、収穫は時空魔術を目と鼻の先で見た、そんな経験を積んだぐらいか。時間を扱う高度な術は、そうそうお目に掛かれるものでもない。貴重な体験ではあったが、実際目の当たりにすると案外呆気ないものだった。何よりも金銭面の喪失が大きい。近い内にまた一人、そして道連れを受ける柳火の二人で、仕事の仲介へ足を運ぶのだろう。

 気が遠くなるような近い未来から目を逸らすと、楽し気に微笑むシリルが視界に入る。もし彼がこの先の未来、故郷へ、ピブリノア戻らない可能性があるのならば、ここから更に遠くへ旅立つことを望むのならば……。
 最低で最高の提案が頭をよぎり、柳火は息を飲んで一人首を振った。トーンが変わらない、落ち着いた声で名前を呼ばれる。

 「……悪い、少しぼーっとして」
 「暑いなら、魔法使う?」

 シリルはそう首傾げながら、真っ青な手袋を懐から取り出した。その手袋は、彼が魔術を使用する際に身に着ける、例えるのなら魔術師の杖みたいなものだ。少年の言葉と仕草に一瞬目を見開き、柳火は慌てて「大丈夫だから」と制止した。体内に蓄える魔力の器も、保つ気力も、一人前と比べれば泥雲の差があるのだ。この場で魔力を使っては、例え基礎的な治療魔法であれ無駄遣いにも程がある。それを自覚しての素振りだったのか。彼の変わらない表情から読み取ることは、今の柳火には出来なかった。
 全力で抵抗する様子に、シリルはそう、と短く返事してから手袋を懐へ引っ込める。

 気付けば、大樹の下に覆っていた葉の影は大移動していたようで、鋭い西日が木の葉を抜けて差し込んでいる。汗が滲み、肌も焼けているのかじりじりと痛んだ。思い返せば、長いこと水を飲んでいない。
 柳火は一旦施設内へ戻ろうと立ち上がるが、突然ぐっと腕を強く掴まれ引き寄せられる。あまりの不意打ちに、柳火はバランスを崩して膝をついてしまった。腕を掴む手は雪のように白く、しかし込められた力は意外に強くて驚く。
 何よりも、冷たかった。

 「顔色、悪い」
 「本当に、大丈夫だか……っ!」

 念の為に釘刺す声は、氷のようにひやりとした感触により途絶えてしまった。
 心臓に悪いほど冷たい、シリルの手は柳火の頬に触れ、黒い瞳でじっと覗き込む。びくりと体が強張り、鼓動が激しくなる緊張からか息を吐くことも忘れ、瞳から視線が外せない。冷や汗が首筋に流れるが、時の流れも止まったようにも感じられた。全てを見透かし、飲み込まんばかりの黒点に、恐怖さえ覚える。
 術が掛けられている。脳が遅れて理解しても体は既に動かせず、息が詰まって悲鳴さえ上げられない。心が止めてくれと鋭く叫び訴えかけるが、声が出せない。言葉を紡がず無言で見つめられ続け、瞬きも忘れてしまった。血の気が引いていくのが分かる。次に柳火が恐れたのは、何をするつもりか読めないシリルの動向。鼓動が早鐘のように忙しなく鳴っている。
 呼吸もままならない中で、叫んだ、止めてくれと。しかしやっと喉から絞り出せても、掠れ濁った声ではまるで届きやしない。
 心なしか体温が急速に奪われている気がする。このまま全身が氷漬けにされてしまうのではないか、そんな錯覚が芽生えてきた、その時だった。
 不意に生温い風が吹き抜ける、同時に感じた気配に目を見開く。

 「柳火!」

 術を掛けられ、動けず藻掻く者の名前を呼んだのは大男、ジェラルドの声だ。近くへ接近されると即座に襟首を掴まれ、強引に後方へと投げ飛ばされる。勢い余って体を地面に引きずっていたが、何とか自力で身を起こす。触れる手から流し込まれていた魔力は無理矢理引き離された。それによって魔術が解かれ、体は一気に熱を帯び始める。

 「かっ……はっ!はぁ、うっ……ゲホッ!」
 「大丈夫か!おい、しっかりしろ!」

 身も凍るような緊張感から解放され、ともかく新鮮な酸素を欲し、肺に取り込んだ際に咽てしまう。離れて初めて気付く、びりびり痺れる頬に柳火は眉をひそめた。歪む視界の奥で、シリルの姿が確かにある。何故、純粋な疑問を投げかけたが、強烈な眩暈と吐き気を覚え、口元を両手で覆った。急激な体温上昇に、負担がかかっている。理解した直後には、吐き気も何とか飲み込めた。
 ジェラルドに肩を支えられ、不思議と頼もしく思える。そのまま気力を捻り出し、同期の支えを借りてふらふら立ち上がった。霞む視界に立つ少年は、相変わらずの無表情で、しかし戸惑っている色を読み取る。
 それから少し遅れて、ジェラルドの太い腕が震えてることに気付いた。こうなれば嫌でも予想がつく、酷く激昂しているのだと。想定と大きく外れた異常事態に、混乱も免れないだろう。しかしジェラルドの場合、考えるよりまず体が動く。非常に不味い、と柳火は思った。

 「シリル、てめぇ柳火に何してやがった!?」

 自分の手の平を茫然と眺める少年へ、大男は眉間に深い皺を刻んで叫ぶ。いつの間にか静まり返っている、訓練場にまで怒声が聞こえそうな勢いだ。ジェラルドが背負っている大剣に手をかけるのが見えて、柳火は慌てて止めに入る。見知った者同士で刃を交え、傷つけ合うようなやり取りは、訓練ならまだしも、誤解に挟まれた殺し合いは絶対に避けたい。

 「ジェラルド落ち着け!シリルには悪意なかったから!」
 「友人を殺しかけた奴だってのに、黙って見過ごせっつぅのか!?」
 「……頼むから、止めてくれ!」

 もはや懇願に近しかった。
 頭に血が昇ってるジェラルドを必死に止めている間も、背後にいる黒髪の少年が動く気配はない。その代わりぽつりと、シリルが言い放った言葉は悲しそうに響いた。ジェラルドはその声に、冷水を頭から被ったように落ち着きを取り戻し、ぴたりと動きを止める。その理由は、柳火には分からなかった。
 体に鞭打っていたが再び、脳を殴られたような強い眩暈に襲われ、燃えるように熱い体が支えきれなくなり膝をつく。操り人形の糸がプツリと切れたように、突如意識が途切れ、体はその場で崩れ落ちた。



**********

 傭兵ギルド『黒の傭兵』の訓練場、その近くには医療室をいくつか構えている。
 訓練にて怪我した者を、一刻も早く治すことを目的としているが、離れた場所にも何点か医療施設が隠されているらしい。後者の情報は、酔っ払った先輩の戯言であるので、真相は不明なのだが。訓練場近くの医療室に傭兵訓練生が一人、意識を失った状態で運ばれてきた。幸い早めの応急処置が行われたお陰で、安静にしていればすぐ完治するほどに抑えられたようだ。
 話を聞き、医療室に駆けつけてきた人物が一人。木製の扉を割らんばかりに勢いよく開け、その者の名前を呼ぶ。

 「柳火!」
 「先生、医療室では静かにお願いします」
 「あ、すまない……」

 予め準備されたように医者からぴしゃりと叱られ、唐突な乱入者は大変申し訳なさそうに謝った。軽鎧を身に着けた長身、薄い金色の髪を丸く一つにまとめ、燃えるような赤い瞳を持つ女性。『黒の傭兵』の指揮官であるヒルダは、運ばれてきた患者を探しにきょろきょろと周囲を見渡す。すると意外とあっさり探し人は見つかった。
 所々に土で汚れた赤い髪に、空と海色の複雑な双眸を持つ、やや顔色が優れない患者は、どこか怠そうな調子で談笑に加わっている。そして当然のような先客、仲の良い同期であり友人でもある、ジェラルドとシリルも医療室に訪れていた。一瞬ヒルダは渋い表情を浮かべたが、それはすぐに消え去る。

 新たな来客の顔を見て、柳火は表情を凍り付かせた。本来は何事もなければ読書で過ごし、時計の短針が東を指す直前に訓練場にて、ヒルダから指導受けるつもりだったのだ。意識が戻ったのもつい数十分前で、その頃にはすっかり日も暮れており、訓練の予定を思い出した際には、いっそここから逃げ出したくもなった。
 つまり、無断欠席の罰を恐れていたのだが。

 「良かった、無事だったんだな」

 かつては名を聞くだけで戦慄させていた鬼指揮官からの一言に、柳火は目を丸くせざるを得なかった。患者だけではない。ジェラルドも、表情が乏しいはずのシリルでさえ明らかに驚いている。指揮官の予想斜め上突き抜けた一面に、一瞬の沈黙が流れた。
 しかしこの反応も慣れているのか、ヒルダは小声で「失敬な」と溜め息混じりに呟いてから、ブーツの靴底を鳴らし近寄る。道を開けるように、もしくはヒルダから避けているのか、同期の二人は左右それぞれに一歩二歩、座る椅子と共に身を引いた。

 「明日一枚の書類を持ってくる、それで無断欠席の罰を免除しよう。それと復帰の目処は、予め医者から聞いておくようにな」
 「あの、ヒルダ先生……」

 ヒルダからは、用件を迷うことなく簡潔に伝えられる。伝達を受けた者が頷き了承すると、彼女は踵を返そうとした。……が、シリルは我慢ならず椅子から立ち上がり、ハッキリした声で引き留める。
 体の芯まで冷やす氷魔法を人間相手に、それも同期であり仲間へ使用してしまった。少し冷静に考えれば危険極まりないことが明白で、未熟だった少年は酷く後悔する。柳火が意識を取り戻した直後、シリルは何度だって謝っていた。その時と同じように、深い反省の色を示しながら頭を下げるが、彼女も怒らなかった。ヒルダは少年を見下ろしてから、ちらりと柳火へ視線を投げる。

 「貴様、柳火には謝ったのか?」
 「見てて痛々しいほどに」
 「ふっ、そうか。今の貴様も相当見てられないものだがな」
 「無様な姿で悪かったな」

 馬鹿にされるとは予測していたものの、いざ目の前で指摘されると僅かに腹が立つ。柳火は微かに青筋浮かべながら、隠さず大きく舌打ちした。にやり、と余裕そうな笑みを浮かべたヒルダはやがて息を吐く。下げられた少年の頭に大きな手を置き、ぐしゃぐしゃと撫で回して微笑みかけた。

 「貴様は、無理する友人が心配だったのだろう」
 「…………」
 「だが今後は、治癒以外の魔術を、決して仲間に向けて使わないように。約束だぞ?」
 「……はい」

 そして、今度こそ用を済ませたかのように背を向け、医療室から出て行った。パタンと扉が閉まり、外からの気配が去るまで室内は静まり返る。やがて鬼の指揮官が完全にその場から離れた頃、黒髪の少年はようやく頭を上げた。長い長い息を吐きながら、すとんと木製の椅子へ腰を下ろす。威圧感から解き放たれ、力が抜けたようだ。
 安物の古びたベッドをギシギシ鳴らしながら、柳火はゆっくりと体を倒し、息を深く吐き出す。突然のアクシデントに、密かに組み立てていた予定も、延長線上に引きずり込まれてしまった。だが思考を巡らせるのも億劫になっているのは、単純に寝起きから抜けない気怠さのせいだろう。
 仰向けに寝転んだ際、頭上で鳴らしている時計の針が視界に入り、思わず「あ」と小さく短い声を漏らした。時刻は、既に午後十時を通り越している。患者はともかく、明日も訓練がある二人はぼちぼち就寝に入らないと不味い時間帯だ。

 「今日はもう、寝た方が良い」

 静寂に支配された医療室では、声が小さくともよく通った。忠告されるまで、友人の二人も時間を忘れていたようで、ハッと釣られて時計を見て息を飲む。傭兵や訓練生には各部屋が与えられており、幸い、ここからはそんな離れていない。
 忠告を聞くなり、「うげぇ」と声を上げたのはジェラルドである。先ほどまでの大人しさは何処へやら、唐突に動き出し部屋へ逃げ込む準備を始めるが、柳火はそんなジェラルドの腕を強く掴むんだ。一方、シリルは一瞬だけチンケなベッドを視界に入れたが、やがてそっと部屋に戻る準備をして、扉の方へと歩み出した。扉の一歩前で立ち止まり、水色のローブを揺らしながら患者へと振り替える。
 ジェラルドの帰宅準備を阻止する、その腕だけは何が何でも離さないと、お互い躍起になっていた最中。少年からは、見て見ぬ振りをされたようだ。

 「柳火、本当にごめんなさい」
 「俺のことは気にしなくていい。おやすみ、シリル」
 「……おやすみなさい」

 ぺこりとお辞儀した後、シリルは扉の奥へと消えていった。去り際に見えた彼の、漆黒の瞳がどこか物悲しく映ったのは、恐らく気のせいなのだろう。隙を見たつもりか、その間も手を振り解こうと腕は暴れていたが、柳火は頑なに手放さなかった。
 やがてジェラルドは根を上げ、ようやく先ほどのように大人しくしたところで、柳火は腕を手放した。ジェラルドの太い腕には、くっきりと赤い手形らしきものが付いている。

 「さて、話してもらうぞ」
 「な、何を話せって――」
 「とぼけるなよ。シリルの動向、明らかにあんたは分かっていただろ」

 柳火は低く、はっきりと通る声で、この場に残された同期へと言い放った。



**********

 柳火が医療室に運ばれていったのは、今回で二回目だった。
 傭兵ギルドで日々を過ごしていると、稀に思わぬ事態に遭遇する。依頼に出向いた者が帰らぬ者となるのは、何も珍しいことではない。この『黒の傭兵』設立者でも国に駆り出されては、想定外の襲撃に戦死したようだ。しかし生死を掛けた仕事中ならまだしも、一般開放しているエリアに暴徒が侵入したのだ。およそ、三月前だっただろうか。その頃は、訓練生になってから一月少々とまだ未熟な頃であった。

 夕日が沈み夜を迎えた時刻。この時間帯は仕事を終えた傭兵から一般人まで、酒と飯を目当てに集い賑わい始める。当時ジェラルドは先輩との酒飲みに付き合わされ、あることないこと自慢話を聞き流していた。一方、柳火は遅めの夕食を取ろうとしたのだが、不幸にもその同期に捕まり、道連れに巻き込まれながら肉を食らう。唯一幸いだったのが、その夕食は先輩が奢ってくれたぐらいか。そんな贅沢なタダ肉を、八割平らげた時だった。
 出入り口付近にて、突如鋭い悲鳴と野太い怒声が響き渡り、ドタドタと喧しく床が人々の重みで揺れる。視線は一斉に声がした方角へ、雑談もぴたりと止み、相手の声がよく伝わるようになった。寸秒後、次に聞こえたのは苦痛に叫ぶ断末魔だ。後に知ったことだが、ヴァ―ロスではたまに賊が出没し、その矛先は何故かギルドに向けられるらしい。
 怪我人が発生すれば、頭に血を昇らせた輩がドカンと席を立ち上がり始め、暴徒と睨み合い隙を探り合う。中には臆病者がこそこそと逃げる者もいる。そんな中で、柳火は偶然、見つけてしまったのだ。威嚇する暴徒を睨みつける、今にも足を踏み込みそうな男の子の姿が。不味いと思った時には、既に席を立ち上がり駆け出していた。
 しかし、立ち上がったのは所詮少し体を鍛えただけの青年だ。先輩と同期の声が届くものの、もう遅い。暴徒と子供の間に割り込み、赤い液が視界に映り、じりじりと腕に熱が走り、激痛が襲う。今まで経験したことのない痛みに、飛びそうな意識を保ちながら必死に耐えている間、まだ二桁も満たない子供は、目に涙を限界まで溜めて見つめていた。

 「お前の大丈夫は、全然信用なんねぇんだよ」

 その傷を引き金に、酒場に残っていた傭兵総出で動き、暴徒は取り押さえられたようだ。脂汗を額にべっとりと浮かべ、腕の傷口を抑える手は赤く染め、それでも柳火は「大丈夫だ」と子供へ無理に笑っていた。何度でも、子供の涙が消えるまで、安心させようと。後に医療室へ連行となり、手早い処置のお陰で事なきを得たのだった。
 当時を目撃していたジェラルドは、それから柳火をよく見るようになったと言う。我慢強いのか、プライドが高いのか、子供が好きなのか、正直に言えないのか。彼なりの観察眼から導き出された結論は、いつしかシリルにだけ伝えてしまったようだ。柳火とは同期であるものの、最年少であるシリルを特別に可愛がってるのも、ジェラルドは知っていた。

 『大丈夫って、言ったから』

 倒れる直前に聞いた、シリルの震えた声が脳裏に響く。心配させまいと、強がる癖が無意識に出てしまった自分自身にも責任はあるのだろう。ジェラルドのお節介焼きにふつふつ怒りが湧いていたが、時計の針が進むごとに冷静さを取り戻し、やがて憤怒の残りカスは溜め息へ変わった。余計なことを吹き込んでくれたのには確かに腹立たしいが、彼に助けられたのも事実だ。
 今後から気を付ければ良い、決意を固めかけたタイミングで、ジェラルドはふと真面目な表情に変わる。この大男は頭が悪いものの、張り巡らせる直感は人一倍鋭く、決して侮れない一面があった。

 「痛いんなら根ぇ上げろよ」
 「実際大したことはなかったんだ、根を上げるほどでもないだろ」
 「柳火、お前それで二度医療室に世話んなってんだからな」

 不意に正論を突きつけられ、柳火は思わず喉に言葉を詰まらせる。代わりに舌打ち一つ、ぐぅの音も出ないとはまさにこのことか。
 なお反抗的な態度を示す同期の様子に、ジェラルドは大袈裟に溜め息を吐いた。バンダナで巻き上げた髪をぐしゃぐしゃと掻きながら、「あー」と間抜けた声を流し視線を泳がせる。考え事とらしくないことをする時の、彼の分かりやすい癖だった。

 「なんつぅーか、その、なんだ。シリルにも俺にも、ちったぁ頼ってくれて良いんだからな」
 「まるで格好つかないな」
 「俺はお前ほどカッコつかねぇ奴だからな」
 「はっ、なんだそれ?」

 大真面目な顔した大男の返しに、赤髪の青年は吹き出して笑う。まるでいつも俺が格好つけてるようじゃないかと文句つけるが、その様を眺めていたジェラルドはどこか満足気に笑っていた。

 思考に引っかかっていた疑いもすんなりと解け、ひと段落した拍子に柳火はふと天井を仰ぐ。正確には時間を気にしたのだが、時刻は非常に不味い方角にまで曲がっていることは理解した。何より、ジェラルドが顔面蒼白させながら「ゲェッ」と反応したのだから。今度こそ自由な身で、わたわたと忙しなく周囲を見渡し、忘れ物がないことを確認する。
 いつの間にか出入口付近で仕事していたはずの医者の姿はなく、狙ってるかのようにドタドタとジェラルドは扉にまで飛びついた。ノブに手を掛けたかと思ったが、急にぴたりと静寂をまとって後ろを振り返る。
 ……気のせいだろうか、一瞬、息が止まりかけたのは。微かに、息苦しさを感じたのは。

 「柳火、またな」
 「……あぁ、おやすみ」

 今日と別れる最後の挨拶を交わして、パタンと扉が閉まり人が見えなくなった。すっかり大人しくなった室内で、柳火は再びベッドを軋ませながら横になる。待ってましたと言わんばかりに、重く圧し掛かる睡魔に身を任せ、瞼をゆっくり閉じた。

 気のせいだったのだろう。あの大男が、寂しげに笑ってるように映ったのは。

B.Mercenary 01

 Day 134

 数々の武器が衝突し響く。
 息を止め、緩やかに振るった銀の剣は白い弧を描いた。ビュンッ、と鋭く鳴らし、バキンッと火花を咲かす。しかし勢いが乗った大振りの得物を相手に、一回り二回りと小さな剣が敵う訳もなく、すぐに手元を引き寄せて一歩飛び退いた。直後、元居た場所の地面が、重い衝撃と共に十数センチ抉れる。その光景を目の当たりに、相変わらずのとんでもない力だと感心してしまった。長剣を持つ青年は、息継ぐ間もなく再び距離を詰める。
 ずっしりと重みあるはずの大剣は、これまた容易く地面から引き抜かれ、自在に扱う男は明らかに体格が違った。傷が目立つ貧相な鎧を身にまとい、覗かせる褐色の太い筋肉で物言わせている。黒のバンダナで雑に巻き上げられた褪せた青髪と、濁る青の瞳が鋭く前を睨んだ。
 一歩、音もなく踏み出した大男は百九十少しの長身で、この場で誰よりも目立っている。一方、大男の隙を探るのは百七十程度の青年だ。ミディアムヘアの赤い髪を躍らせながら、砂埃が巻き上がろうと、青い瞳を瞬きせずに対峙する。ザリッと足元を強く踏み込み、剣を横薙ぎに振るった。狙うは相手の大男の胴。しかし大剣に阻まれてしまい、渾身の一撃もあっさりと弾かれてしまう。予想以上の素早い動きに、青年は舌打ちした。
 弾いた衝動でこじ開けた一瞬の隙に、青年は再び身を引こうとする、その時だ。

 「――っ!」

 片足が、地面から離れない。目の前に迫り来る大剣の影、足元へ目をやるとそこには、泥から生まれた『シモベ』が左足首を掴んでいたのだ。バランスを崩し、地面に背中を強く打ち付け倒れ込む。肺に入っていた息を吐き出し、だがその痛みに悶える間もなく、剣を横倒し両手で突き出した。間一髪、大剣の振り下ろしを防いだものの、腕にビリビリと痺れが走る。
 歯を食いしばり、何とか凌いだ青年の額から汗が一筋。攻防する両者、一瞬でも気が抜ければやられるか、逃すかの結果が突きつけられるだろう。大剣を持つ男は、ぐっと更なる力と体重を乗せ、ちっぽけな剣はガチガチと悲鳴を上げた。

 「ぐっ……」
 「どぉした柳火、降参しねぇとここでオサラバになるぜぇ!?」

 柳火と呼ばれた青年は、思考を焼き尽くさんばかりにフル回転させる。しかし大男も力を緩めれば、瞬く間に獲物を逃してしまうだろう。お互いに決して油断出来ない相手だった。何せ今まで、何戦もの試合で相手にしてきたのだ。互いに技術を磨き上げ、新たな力をこなすようになり、何度だって手合わせしてきた。だと言うのに。
 空気の流れが変わる。大男はほぼ全体重を大剣に乗せ、力を緩めないままにピクリと反応を示した。湿っぽくぬるい風が吹き込む、今の時期は違和感のない自然の一部だっただろう。だが微かに、風を操る魔力を感じ取った。大男は地面に倒れ込む相手へ視線を下げ、気付く。にやりと勝ち誇ったような、自信家の顔が。
 ビュンッと空気を斬る音。砂埃を巻く刃が向かう先は、足だ!

 「チィッ!」

 足首が切られるギリギリラインで、大男は舌打ちしながらその場を飛び退いた。ようやく強大な圧力から解放された青年は、ゆったりと立ち上がる。同時に持ち上げた長剣は、あれほどの負担をかけたのにも関わらず、刃には数ミリのヒビが入った程度で済んでいた。これではまるで仕切り直しだ。大男は改めて大剣を担ぎ踏み込み、青年を切りかかろうとする。
 その時だった。目にも止まらぬ速さで、大男の頭に何かが当たり、スイッチが切れたように巨体が地面に突っ伏される。

 「ジェラルド、貴様は一体何度止めだと言えば分かるんだ!」

 柳火はジェラルドと呼ばれた大男へ、無言で哀れんだ視線を送りながら静かに息を吐いた。頭に直撃したのは、その辺の小さな石ころ。それが剛速球で投げられると、凶器になり得るものだ。鋭い怒声が上がるや否や、辺りはしんと静まり返る。

 ズカズカと二人の元へ歩いてきたのは、軽鎧を着ている長身の女性だった。蜂蜜色の透き通った髪を丸く一つにまとめ、白い肌と整った顔は誰が見ようと美人に映ろう。しかし、如何にも不機嫌を漂わせている赤眼が、青年を睨み石にする。腕や腿の盛り上がりは、戦場を駆ける屈強の戦士のように見えた。――否、実際彼女は『戦場の女神』とも呼ばれる、とんでもない実力者なのだが。
 同じく手合わせしていたはずの人々は、気付けば手を止めて、視線が一点へ集中させている。その瞳は幾度と見てきて、呆れているように思えた。

 「ヒルダ、さん」
 「訓練中は先生だと、貴様も何度言えば分かるんだ!ジェラルドに柳火、一連の訓練が終わってもここに残れ!」
 「ハァ?ジェラルドを止めたのにこの仕打ちか!?」
 「今回の訓練は、魔法の使用を禁止したはずだ」

 その時突如冷静さを取り戻したヒルダは、教え子へ静かに指摘する。「あれは試合を止める為に仕方なく」と言葉を濁し、痛いところを突かれた柳火は苦い表情を浮かべた。彷徨わせていた視線を足元へ向けるが、原因を作った問題児は未だ地面で伸びたままだ。起き上がる気配は、まだない。
 相手との体格を比べ、生じる力の差も歴然である。それに加えて柳火が持つ武器の一つ、魔法さえも封じられては手も足も出ないのだ。そんな状況で熱くなった試合を止めろと言われようと、無理があると目で訴えた。意図を読み取ったのか、思うことがあるのか、すんなり応じない青年の態度に小さく息を吐く。
 やがてヒルダは、僅かに膝を折り目線を合わせてから、他に聞こえぬようにと声を潜めた。

 「私から、二人に話したいことがある。時間をくれないか?」

 燃えるような瞳は、青年の髪色さえ取り込んだような鮮やかさを放っている。曇りのない赤眼は、色素が微妙に異なる碧眼を見つめ数十秒。長いようで短い沈黙の末、柳火は渋々と頷いた。返答に満足したヒルダは口端に笑みを浮かべ、大きな手のひらでくしゃりと柳火の頭を撫でる。賢い奴だと、先生は笑った。

 ヒルダから真剣に出た頼み事は、小言をつらつら並べるような説教ではない。確信を持った上で承諾したものの、内容が気になったせいか、それ以降の話はまるで頭に入って来なかった。
 先生が今日中に教えたがっていた項目を、一通り並べ終える。魔法もなしに力と知恵、技術を振り絞り、どう強敵相手に立ち向かい切り抜けられるか。ヒルダはそれぞれの訓練生に、異なった課題を提示する。
 そこでようやく、気絶していた問題児は起き上がったのだった。



**********

 傭兵ギルド『黒の傭兵』が構える町、ヴァ―ロス。
 特筆される行事や名産品はまだなく、町が少し賑わっているだけである。それも最近になっての話であり、十数年前までは人も少なく閑散としていたらしい。柳火がヴァ―ロスへ訪れてからそれなりに経過しているが、書籍に記されてる訳ではなく、人づてでしか情報が得られないのだ。……そもそもこの町の住民で、字が書ける者は圧倒的に少ないのだが。
 何故、こんな場所に傭兵ギルドが出来たのか。恐らく知る者は一人二人存在しているはずだが、これもまた不思議と知る機会に恵まれない。設立者は、数年前に戦死したようだ。

 「何だよ、話って」

 依頼の羊皮紙が貼り付けられた、憩いの酒場はもちろんのこと。『黒の傭兵』ではその他にも様々な施設が揃っており、中には傭兵以外に一般開放されている場所も存在している。柳火とジェラルドが残された訓練場では生憎、関係者以外立ち入り禁止であるが。
 つい数刻前に起き上がったジェラルドは、二人の間で交わされたやり取りを知らぬまま。今から長い説教が飛んでくると思い込んでるようで、話を切り出されるといよいよ元気がなくなっている。平然とした素振りを見せる柳火と、憂鬱なジェラルドを見比べた後に、ヒルダは大袈裟に溜め息を吐いた。

 「お前達は先日、老夫婦を助けたのを覚えているよな」
 「んぁ、ろうふうふぅ……?」

 ヒルダから飛び出た想定外の言葉に、すっとんきょうな声を上げたのはジェラルドだ。ブルーグレイの瞳をぱちくりと瞬かせてから、柳火と顔を見合わせる。もちろん、柳火にも心当たりがあった。

 今から四日前の話だ。
 ヴァ―ロスは都市から都市へ、旅路の通過点として利用されることが多く、馬車が交わる光景も珍しくない。その日の晩、見回りするはずの治安隊が不足していたのか、報酬と引き換えに傭兵が駆り出された。それが柳火とジェラルドだ。
 仕事の内容は至ってシンプルなもので、怪しい者を見つけた際は治安隊に突き出すように、そして助けを求められたら手を貸すようにと。一人銀貨三百枚、場合にもよるが比較的美味しい仕事であり、断る理由はなかった。町周辺の地形はそう複雑なものでなく、馬車道が数本ある。それ以外はたまに木が生えてたり、小屋がある程度の何もない平原だ。そう警戒する必要もないが、稀に飢えた盗賊が出没している。暗い以外に視界は良好、厄介な動物も出没せず、実に楽な仕事だ。

 そして、朝焼けを拝むにはまだ早すぎる時間帯。退屈に欠伸を噛み殺していたジェラルドは、ふと一つの団体に目を止める。どうやら金に困った盗賊が馬車を捕まえたらしく、キラリと光らせたちっこい短剣を見せびらかしながら脅していた。それからの救出劇は異様に早い。
 ジェラルドは盗賊の背後を取りに駆け、柳火は魔力によって風を呼び起こし、ジェラルドへと風をまとわせた。可視し辛い上に、夜の暗闇を味方に引き込んで、気配の感知を遅らせる。脅していた盗賊の後頭部へ、大剣の柄を勢いよく突きつけた。それからまとう風は暴風へと変わり、盗賊団の仲間が怯んだ隙に、同じ手段で見事全員気絶させることが出来た。
 後に伸びたチンピラを治安隊へ引き渡し、見回りの仕事を完遂させたのだ。
 まさにその時襲われていた馬車には、気品のある老人が二人乗っていた気がする。会話も一言二言交わした程度で、周囲が暗くてよく見えなかったのだが。未だここに留めた意味が分からず、柳火は首を傾げる。

 「その老夫婦が、凶悪犯だったとでも?」
 「えーっ!そうだったのか!」
 「馬鹿、例えばの話だ」
 「全然違う、貴様は何故そんな悲観的に捉えるんだ」

 本気で驚いた様子の巨体へ、柳火は思わず軽く殴った。先ほどの試合で生じた恨み、八つ当たりも多少含まれている。そのやり取りに笑うことなく、ヒルダはやれやれと肩をすくめて首振った。そして豊満な胸の下で腕を組み、キッと鋭く睨みつける。彼女に睨まれたからには、動きも自然に止まってしまった。
 妙な緊張感が漂い、柳火は唾を飲んだ。

 「今朝、その老夫婦がギルドに訪れてな。お礼がしたいのだと」

 しかしヴァ―ロスを発つ時間も迫っており、生憎訓練中だった二人に会うことは叶わなかったと言う。たまたまその場で休息を取っていたヒルダは、老夫婦から伝言があれば受け取ろうと声をかけたようだ。そしてヒルダは、いつからか腰に下げていたらしい革袋を取り出した。じゃらりと、重そうな音が鳴る。
 膨れ上がったその丈夫な革袋を前に、柳火とジェラルドは目を見開いた。思わず正体を聞きそうになったが、それは火を見るより明らかで、柳火は言葉を飲み込む。それも今までこなしてきた仕事の報酬よりも、ずっと大きく膨らんでいた。

 「銀貨千枚、二人で分けて五百枚だな、老夫婦から渡して欲しいと頼まれた。平等に分けるんだぞ?」



**********

 時は夕刻。
 この日の訓練はあの手合わせが最後だが、二人が鬼教師から解放されたのは、柳火が想定していた時間よりも一時間後だった。思わぬ追加報酬に心躍らせ、快く終わりを迎えられたと思いきや、直後ヒルダからの長い説教が露わとなったのだ。今回の訓練中、魔法の使用を禁じたにも関わらず、ジェラルドは召喚術に類するシモベを呼び出し、柳火は風を操った。その罪は実に重い。
 度重なる相槌と、反省の言葉を並べ続け約二時間。すっかりへとへとに疲れてしまったかと思いきや、ジェラルドは思いの外元気だった。その証拠に、傭兵ギルドから外へ出るなり突如、「お前に贈り物してぇ」っと欲望をぶちまけたのだ。
 目の前にガラガラと轍を残しながら、馬車は通り過ぎていった。

 「柳火、お前に贈り物がしたい!」
 「まるでプロポーズのように言わないでくれ、気持ち悪い」

 今度は名指しで欲望を吐き出すジェラルドに、隣を歩いていた柳火は真顔で冷たく返す。まぁそう言うなと上機嫌で笑うジェラルドは、太い腕を柳火の首に回そうとしたが、危険を察した青年はひらりと逃げて躱した。その拍子に肩に掛け背負っていた、重みの増した麻袋がぽふんと柳火の背を叩く。一方同期に逃げられたジェラルドは、未だ片手にあの革袋を握り締めていた。ニヤニヤした笑顔に顔をしかめながら、何をまた唐突に、と柳火は問う。
 どうやらジェラルドは、「あの時に手柄が取れたのは柳火のお陰だ!」と結論付けたらしく、それが彼にとって必要事項だと。語彙が貧困な本人の話を簡潔にまとめると、つまりそう言うことらしい。

 黄昏に染まるヴァ―ロスは、太い街道で様々な雑踏と会話が入り混じっていた。今夜の宿泊先を探す旅人、夕飯の買い出しに歩く女性、仕事帰りの一杯に酒場へ向かう男性。皆それぞれの日常を過ごしており、これから訪れる夜に備えている。ここは、何の変哲もない町だ。都市と呼ぶほどの大規模ではないが、それでも人々の生活を眺めて楽しめる、立派に栄えた町だった。

 「なぁ、今死ぬほど欲しいもんとかねぇのかよ?」
 「特にないな。あれば俺は今死んでるだろうし」

 大通りの端を歩きながらジェラルドは一人で唸っており、時々店の看板へ視線を投げては、すぐに前方へと戻す。それを繰り返すこと数分、結局決定打もなく本人へ直接訊ねるものの、無欲な当人は興味なさそうに答えた。
 初めに目を付けたのは、数々のアクセサリーが売られている装飾店。しかし、これは女性向けだと首を振る。次に目を付けたのは、力のない者向けに売られている武器屋。だが、柳火には既に護身用の短剣があるんだと、ジェラルドは頭をガシガシ掻く。続けて目を付けたのは、近くの都市で作られている酒が鎮座している酒場。否、柳火は飲酒しないと決め込んでいるようで飲んでくれない。特別酒に弱いと言う訳でなく、寧ろかなり強いらしいが……。

 「お?」

 やがて贈り物の手駒が尽きた頃、ジェラルドは何かを見つけたようで足を止めた。柳火もつられて立ち止まり、どうしたと振り返って気付く。
 視線の先は、古ぼけた木造の一軒家。扉上に小さく掲げられた看板には、『時空配達人』と見慣れない店名が載っている。
 扉付近の壁に取り付けられたボードには、一枚の羊皮紙が貼られていた。黒インクで汚くはみ出さんばかりの大きさで、『未来のあの人へ、過去のあの人へ、配達します!』と大袈裟なことが書かれている。あまりの非現実的な口説き文句に、赤髪の青年はすぐに興味をなくしたのだが、一方黒バンダナの大男は無言でじっと紙を見つめていた。
 嫌な予感を覚えた柳火は「おい」と帰路へ誘ったのだが、それに対しジェラルドは「これだ!」と弾けた歓声を上げる。目を輝かせ、じゃらりと握り締めていた革袋を鳴らしながら、ガハハと豪快に笑った。

 「よし決めた、お前への贈り物はこれを使ってみるぞ!」
 「はぁ? っておいちょっと待て、ジェラルド!」

 彼がこうなれば、もはや誰にも止められない。善は急げと叫びながら、ジェラルドは先ほど歩いてきた道を、土埃を巻き上げる勢いで引き返してしまった。取り残された青年は、ただぽつりと店の前で佇んでおり、どうしたものかと腕組んで思考を回す。
 広告から既に胡散臭く怪しい店だが、確かに惹かれるものもあった。絵本の物語にしか見たことなかった、時を渡る夢のような魔術が、目の前で商売されている。生まれた時から人一倍知識欲が強い柳火は、もう一度真実味の薄い広告文を読んだ。汚い字から脳内でゆっくりと理解していく、その際に小さな一文を見つけ、思わず声が小さく上がる。
 『配達一度につき、銀貨三百枚の手数料を頂きます』と書かれた文字。恐らくこの一文は、張り切っていた彼の目に届いていない。
 その時だ。
 突如店内から床が軋むが聞こえ、ハッと身を強張らせた。傍から見るとこれではまるで、利用するか否か迷う客ではないか。肝心の利用する気満々の連れは、一人声上げるなり早々にどこかへ走り去ってしまった。立ち去るべきか、しかし体は硬直したまま動かない。葛藤を繰り広げている内に、とうとう店の扉は開いてしまった。
 店からひょっこり顔出してきたのは女性だ。透き通るような白い肌に、銀色の長い髪をうなじに一つにまとめ、翡翠の瞳はどこか眠たげに映った。

 「あの、ご利用を悩んでるお客さんでしょうか?」
 「えぇとそうじゃなくて……、利用を決めたのは連れなんだが、届ける物を買いに行ったみたいで」

 柳火は誤魔化しに苦笑してから、大通りの人波を遠い目で見つめる。当然だが、そこに連れの姿はなかった。
 しかし女性は嫌な顔一つせず、あららと笑い出してから柳火へ手招きする。扉の奥から吹き込む、ひんやりとした気持ちのいい風が頬を掠めた。先ほど、自分は利用しないことを明言してしまったのだ。それにも構わず誘う手に、柳火は怪訝そうに首を傾げる。

 「外は暑いし、待つなら中に入りなさい。あなたも興味はあるのでしょう?」

 朗らかに笑う女性から図星を突かれ、柳火は僅かに目を見開き、一瞬だけ言葉を失ってしまう。勘が良いのか、顔に出ていたのを読み取られたのか。だがそんな些細な疑問は、冷たく涼しい空気に容易く飲み込まれ、扉の裏側へと引き込まれていった。

 古ぼけた一軒の中は、決して広いとは言えない窮屈さであった。書類や小物がどこもかしこも散乱しており、例えお世辞でも綺麗と言い難い。唯一掃除が行き届いていたのは、入り口から真っ直ぐ奥に潜む、奇妙な装置とその周辺だけだった。靴が床に触れる度、ギチギチと鳴らす店内は、不思議と程よい冷気に包まれている。
 女性は分厚く薄汚いローブを羽織り、その下にも何枚も着込んでいた。だが彼女は涼しい顔して、ブーツでごつごつ床を踏み鳴らし、店の奥へと突き進む。やがて足を止めた場所は、鉄で何重も塗り固められたような謎の装置の前。
 茶色の革で作られたソファへ、女性は来客を誘った。柳火は遠慮がちにソファへ腰かけ、革の手触りを確かめる。数センチと体が柔らかく沈み込んで、心地よく作られた上品なソファだと分かった。その間店員はどこから持ってきたのか、羊皮紙の束をどさりと目の前のテーブルに置く。仄かにカビ臭さが鼻を突き、柳火は古い羊皮紙を無意識に覗き込んだ。

 「頭痛くなりそうな論文だな」
 「あら、一目で分かるの?」

 ここで初めて、店員の女性は声のトーンを変える。山積みされた羊皮紙のトップには『時空魔術の基礎』と飾られており、これまた難解な字の汚さであるが、辛うじて読み取ることが出来た。過去と未来の違い、時間を指定する方法、物体に対して使用する方法、他項目多数。太く強調され、箇条書きで要点をまとめている。
 まぁ少しは、と言葉を濁す若者へ、よほど本が好きなのねと微笑んだ。ぎっしり敷き詰められた文字に、皮肉込めた物言いをしたものの、青年の双眸は新たな玩具を発見したように輝かせている。

 「読むならお好きにどうぞ、お友達を待ってる間は退屈でしょう?」

 許可を得てから、紙を取るまでにそう時間はかからなかった。柳火は数枚の羊皮紙を取り、一枚一枚と丁寧に、上から順にレポートを読み進めていく。術式に関しての理解はまるで追いつかなかったが、それでも一文一文が脳への刺激に繋がる。

 かつて柳火は、近所にある教会の図書室へ忍び込み、本を読み漁っていたことがあった。その中でも一番夢中になっていたのが、『時の旅』と呼ばれる本だ。貧しい村で元気に過ごす少年が、ある日怪我をした老婆を助けた。怪我が治った老婆はお礼に、少年に時代ごとの様々な景色を見せてあげる。大まかな流れはアリガチだが、最後には荒れた地の墓地に連れて来られ、老婆が消え去った衝撃は忘れられない。残された少年は老婆の魔力を受け継ぎ、自力で元の世界へ戻っていったのでした。めでたしめでたし。
 本を読んでから奇妙な感覚が付きまとうものの、違和感はいつの間にか忘れていった。
 それらが再現されてる難解な術式が今、手元に書きまとめられているのだ。やがて人も、友人さえ連れて時間を渡ることが可能となるのか。柳火はレポートを無言で読み進めながら、改めて魔術の奥深さと可能性に舌を巻いた。



**********

 どれほどの時間が過ぎただろうか。
 ヴァ―ロスの夜を告げる鐘が鳴り響き、柳火はふと顔を上げる。未読の羊皮紙も残り少なくなってきた頃、ようやく店の外から人の気配を感じ取った。いつの間にかサラサラと新たな羊皮紙に、羽根を走らす店員も同時に顔を上げ、そして見合わせ微笑む。
 折角の心地よい静寂は、騒がしい足音と扉が開かれる音で容易くぶち破られてしまった。

 「りゅうかーっ!悪りぃ、遅くなっちまった!」

 古ぼけた木製の扉が勢いよく開き、姿現したのは予想通りの待ち人。百九十もある長身の肌は黒く、やや褪せた青の髪と瞳を持つ男、ジェラルドだった。慌ただしく入ってきているが、彼が持ってきたのは見覚えのある黒瓶たった一本だけ。柳火は読んでいた羊皮紙の束をテーブルに戻しながら、明らかに渋い表情を浮かべる。ボトルの栓には、クルリと可愛らしい青のリボンが巻かれていた。
 少なくとも一時間以上待ったはずだ、にも関わらず見覚えのある商品とは。睨む先の単純男は、誇らしげな笑みを浮かべている。

 「なんだよそれは」
 「ギルドで売られてんの見たことあんだろ?ビーマーセナリーって酒なんだけどよ」
 「知ってる、そうじゃない。なんで人を一時間以上待たせた上に、持ってきたのは馴染みある酒瓶なんだって聞いてるんだ」

 『B.Mercenary』は、柳火やジェラルドが所属する傭兵ギルド『黒の傭兵』で、唯一生産されている酒だった。その酒瓶は、液体の有無さえ判別し難いほど漆黒に塗り潰され、まるで外部からの光も飲み込んでるように見える。それに負けぬ黒いラベルには、赤茶の禍々しい文字で酒の名が書かれていた。そして白いインクで小さく、『誕生日おめでとう』の文字と綺麗な字が並んでいる。購入後に書き加えたのだろう。
 柳火は一度だけ、傭兵の先輩に勧められるがまま試飲したことがあった。葡萄酒特有の、絞り出し発酵させた果物の渋み、そして一瞬喉がピリッと来るアルコール。後に蜂蜜らしき仄かな甘みが広がる。出来上がりには程遠い半端物に感じた。販売開始されたのも今から三年前だ、無理もない。しかし、傭兵達の間では意外にも人気があり、仕事疲れの一杯にとりあえず注文するぐらいに強く根付いていた。
 そんな黒い瓶を手にジェラルドは、白い歯と夢抱く心を同時に見せて言い放つ。

 「柳火も十一年後、三十になりゃあ酒も飲んでるだろ。こいつも一級品に化けるかもしれねぇぞ?」
 「だから俺は」
 「お前が酒に強えぇこと俺は知ってっからな!」

 有り余る自信を崩すことなく断言され、柳火は圧倒されるあまりに言葉を失ってしまった。果たしていつ、そんなことを知る機会を与えてしまったのか。覚えている限りの記憶を探りかけたが、それより勝ったのが長年深い眠りについた後の、酒の魅力だった。
 そこで否定してしまうと、あまりに損だと結論に至る。

 「それを未来への贈り物にするの、良いアイディアじゃない」

 それまで二人の間で静観していた女性店員は、そこで初めて口を開く。にこやかに頷く女性にジェラルドも更に表情を明るくさせ、「だろー!?」と同意にやかましく歓喜した。彼なりのナイスアイディアと、提案に否定出来ない自身の酒豪っぷりに呆れた柳火は、静かに溜め息吐く。
 柳火自身、何も酒が嫌いで飲酒を避けている訳ではない。日々の訓練で力を付ける為、障害となり得るものは避ける。その中の一つに、飲酒が入っているだけだ。とある宴会に出席したジェラルドが、翌朝には酷い二日酔いに見舞われ、ヒルダから長い説教を受けていた日を思い出す。
 しかし十年先となれば、傭兵はとうに辞めた過去となるだろう。禁酒と言う枷も、その頃にはとっくに外れているはずだ。

 「じゃあ、あなたには書類の記入をお願いしても良いかしら?」

 女性は新たな紙を一枚、それと彼女が先ほどまで使っていたペンと合わせて、ジェラルドに差し出される。これから摩訶不思議な体験を目の当たりにするのだ。ジェラルドは目を輝かせながら契約書らしき羊皮紙を受け取り、早速目を通し始めた。柳火は腰かけていたソファから立ち上がり、一緒に紙を覗き込む。それに気付いた連れの男は、お互い見やすいように手を少し下げた。
 書かれていた項目は、手紙の配達とそう変わらなかった。住所、氏名、宛先。変わっていることと言われると、それに加え年月日、保障期間の注意書き辺りだろうか。ジェラルドはある程度の項目までスラスラとペンを走らせ、宛先の項目で手を止めた。おもむろに赤髪の青年へと視線が向けられる。

 「お前の誕生日、六月十七日だったよな」
 「よく覚えてるな、先月に祝ったら記憶に新しいか」
 「へへっ、じゃあその一週間ぐらい余裕持たせてっと」

 年月日の欄に十一年後の六月十日と記入すると、「それじゃあ俺は三十一になる」と横から指摘され、グリグリと黒丸で誤魔化してから十年後に書き直す。

 「なぁ、そん時にゃ柳火はどこいるんだ?」
 「んな先の未来なんざ分かる訳ないだろ……」

 当たり前のことだ、ただでさえ一日先の未来も予測出来ない。それが傭兵だったり、似たような便利屋扱いされる冒険者であるなら、なおさら未来予知など難しい話だ。極端に言えば、今日は平穏に暮らしている村であろうと、明日には燃やされ跡形もなくなるなど、よくあることだった。
 完全にペンを動かす手が止まり頭を抱えていると、店員はこちらへ視線を寄越す。

 「分からなければ、この店を指定すると良いわ。年数によっては保障しきれないけど、十年前後なら意地でも守り切るから保障する。届けた後は宛名と居場所を調べて、配達するように仕込んであるの」

 それを聞き、何となく理解した柳火は思わず感心した。先ほど読んでいたレポートの中には、到達地点の座標指定に関連した事柄が載っていたことを思い出す。届けた先がこの店の数年後、まだ現存しているのならばその先の手続きも行えるのだと。因みに書類の注意書きに、この店が出来る直前までの過去を指定した場合、物が届けられるか否か保障しかねない点も記されていた。
 やがてジェラルドは数点の同意にもチェックを入れ、店員の女性へ契約書を手渡した。記入漏れなどのチェックを入れているのか紙に指差し、そして最後のサインまで確認すると満足気に頷く。

 「贈り物は、そのボトル一本だけで良いのね?」
 「ああ!これ一本銀貨二百枚もしたんだ、丁重に頼むぜ」
 「なっ」

 喜々として答えたジェラルドの発言により、柳火は一瞬目を見開き、息が詰まりかけた。まだ稼ぎの少ない新米傭兵にとっては、銀貨百枚でさえ一度に叩き出せる価格ではない。人への贈り物でここまで財布をすり減らす、彼の勢いは時々心配になってしまう。こんなのがうん千spのプレミアモノになるんだと、腰に手を当てわっはっはっと陽気に笑う。
 しかし、この男は一つ大切なことを忘れているようだ。気分絶好調な同期へ、柳火はなかなか切り出せずにいた。そんな空気を汲んでかマイペースか、店員は遠慮なくきっぱりと切り出す。

 「ジェラルドくん、料金の話になるけど銀貨八百枚で良いかしら」
 「……へ?」

 非常に間抜けた同期の声が、店内の隅まで響く。しかし決して笑みを崩さない女性は、人差し指と親指で硬貨をチラつかせ要求する。案の定金欠へ落とされた連れを尻目に、柳火はひっそりと頭を抱えた。また次回の仕事で稼ぐまで、彼の貧相な生活を目の当たりにするのだ。呆然とする同期から視線を感じるが、金はもう貸さないぞと冷たく切り捨てる。
 人助けによって得た報酬は、全て己の思いつきにより削り取られたのだった。

B.Mercenary 00

 Day ++++

 カラリ、と乾いた音が静かに響き渡る。
 昨晩の喧騒と遠く離れたここは、自由を手にする冒険者にとって、憩いの場となる宿だ。朝の静けさにしては窓からの日差しは強く、昼にしては騒がしさがない。カウンター越しの亭主は、退屈そうな眼差しで懸命に食器から水気を拭き取っている。この宿に所属する、ほとんどの冒険者は未知を、金を、あるいは様々な目的の為に朝から飛び立った。
 だが、カウンターの席に一人、羽を休めるままの人がいる。鍛えられた体つきからして、男性であることは把握出来た。袖を捲ったワイシャツの上に黒のベストとスラックス、少し褪せた青ネクタイを身に着けている。冒険者にしては個性的に見える服装だが、亭主は長年の付き合いからか気にも留めない。外見年齢を探ることも難しい、顔を覆う独特な黒兜でさえ今更咎めることもなかった。
 男は泡立った液体をまるで水の様に喉へ流し込み、ジョッキをテーブルに叩きつける。ガツンと鋭い音が宿中に響き、それと共にうんざりした大きな溜め息を吐いた。

 「柳火、昼前からペースが速いぞ」

 ようやく初めて亭主は声をかけるが、柳火と呼ばれた男は悪びれる様子もなく、「エールが切れた」と追加を要求してくるだけだ。空いたジョッキをカウンターに押し付けるが、何かを渡される気配がない。しかし止める言葉も口にせず、水を差しだすこともなく、亭主はじっと飲んだくれを見ていた。
 何か言いたげであるが言葉を探しているのだろう、そう読み取った黒兜は亭主へと視線をやる。落ち着いた年齢になると、いずれはあのような気遣いが出来るようになるだろうか。柳火はふと、ぼんやりとそう思う。兜の奥に光る、深い海原と空がちらりと見えた。

 「昨日、弟が亡くなった」

 絞り出した掠れた声で、聞かれる間もなくそう告げる。喉が渇いて仕方ないのだろう。亭主は拭いていた皿を鳴らし、エールが注がれたジョッキをテーブルへコトンと置く。そして少しの間を空けてから、短く「そうか」とだけ呟いた。再び辺りはしんと静まり、ごくごくとジョッキに入った酒は飲み干される。ぐらりと揺れる視界を抑えながら、無音の宿に入り浸っていた。
 柳火の様子に異変が出たのは、亭主にも心当たりがない訳ではない。
 厨房で仕込みの最中、一人の見知らぬ女性がこの宿を訪れた。古ぼけた外套を身に着けフードを被っていたが、まるで潔白のシルクのように細く、長い髪が垂れていた。そして上品な言葉遣いで柳火の行方を尋ね、足早にその場を立ち去ったのだ。暫くして柳火は宿に帰って来るなり、カウンター席に腰かけ酒を注文し始め、今に至る。
 酷く、疲れている声だった。

 「弟は生まれつき体が弱くてな。もう十二年前になるのか……、訃報を届けた女と二人で世話していた」

 聞かれることもなく、抑えきれなくなった溢れる感情をぽつぽつと語り始める。弟の持病が悪化しないように、回復へ向ける為、あれやこれやと手段を尽くしたが一向に良くならず。逆に悪化することもなかったが、状況は気が遠くなるほどの平行線を辿っていた。それも生活の一部とさえ思うようになったある日、柳火は出会ってしまったのだ。
 ここで一旦言葉を区切り、ジョッキを持ち上げ酒を流した。亭主の前に積み上がる、皿の山は随分と減ってきたが、空いたジョッキの密林はまだまだ広がりそうだ。まだ酔いには程遠いのか、はっきりとした口調で続ける。

 「隣町へ買い物した帰りの山道で、ゾンビウルフに襲われてさ。体力も尽きかけて、危うく餌になりかけた時、助けられたんだ」

 冒険者。一か所に留まることなく各地へ巡り、自由と言う刺激を愛し、束縛と言う退屈を嫌う者達。その者の存在は知っていたが、実際の働きっぷりを目の当たりにしたのは、それが初めてだった。憧れはやがて決意に変わり、育てられてきた家から離れることにしたのだと。
 時々冷めた揚げじゃがを口へ放り込み、また注がれたエールを飲み、一息吐いた。亭主は表情を変えることなく、ただ語る口を待っている。代わりにコトン、カチャン、と高い音を鳴らす食器を慎重に扱っていた。微かな生活音以外が響かない沈黙は、やがて震えた声によって頼りなく破かれる。

 「なぁ、親父」
 「なんだ」

 亭主は拭き終わった皿を数枚重ね、背後の棚へ置きながら返事をする。兜ごと項垂れながら、ジョッキをようやく手放した柳火は、余計な声を殺すことに努めた。嗚咽など聞かれたくない、ただ一つだけ親身になって聞いてくれる人へ、言いたくて吐き出す。

 「俺は、自分勝手で、どうしようもない兄だったよ」

 途中で縛られることが嫌になり、世話を全て使いに押し付けて飛び出して。そのくせ亡くなれば泣いている無責任なのが、情けなくて仕方ないと、柳火は自分自身への怒りが堪え切れず声を荒げた。その様子を亭主はどう捉えたのか、食器を片付ける手を止めた。

 「お前さんが被るソレは、弟さんの為だったんじゃないのか?」
 「――え」

 予想外の言葉を投げかけられ、柳火は一瞬驚きの声を漏らし顔を上げる。視線の先は、相変わらず食器を片付ける亭主の背中があり、振り向くことはなかった。真っ白で飾り気のない皿を捌くと、次は空のジョッキへと手を伸ばし始める。
 酔い始めてきているのだろうか、突如突き出された動揺がやがておかしくなり、男は思わず笑ってしまった。沈んでいた心に空気が吹き込まれたように、一気に上機嫌となる。手放していたエールジョッキを再び握り取り、半分以上残っていた酒をぐっと全て流し込んだ。
 男の兄弟は並べてみればほとんど似ていない、そんな容姿の中たった一つだけ共通点があった。僅かに色が合致しないオッドアイ、空のような青と、海のような青の瞳は、気付いた者の虜にする。もし男の名前が知り渡った時、もし見知らぬ誰かが恨みを持った時、もし二人が兄弟だと知られてしまった時、真っ先に弱い者へ毒牙がかかるだろう。そんなあらゆる可能性を弾く為に、男は奇妙な黒兜を被り始めたのだ。
 大切な弟を、巻き込みたくなかった。

 「あぁそうだよ、あんたは名探偵か?」
 「ワケあり冒険者は、そう珍しくないからな」

 ただそれだけ言うと、亭主はようやくカウンター席へ振り返った。それから新たなボトルを持って、酔い始めた冒険者の前に置くのだ。先ほどまで出していたエールとは違う、黒に塗り潰されたボトルだった。無言で差し出された追加の酒に、この時初めて柳火は怪訝そうに視線を向ける。
 これは、そう亭主に問い出す男は、これを知っていた。

 「贈り物だとさ。確か届いたのは先週だったか、お前さんに渡してくれと頼まれたもんだ」

 中身の有無さえ確認が難しい、分厚い黒塗りの贈り物を見つめる。簡単に巻かれたラベルには、色褪せた文字で『B.Mercenary』と書かれていた。懸命に拭き取っていたようだが、所々埃がこびりついている。商品としては最低な贈り物だが、中身はさぞ上品な味に仕上がっているのだろう。送り先の男は確信した。
 新たなグラスを持ってきた亭主は、黒ボトルに興味を示しながらカウンターへ置いた。知り合いかと、短く問う亭主に黒兜は頷く。微かに見えた空色と海色の双眸を細めながら、ゆっくりと頬杖を突いた。

 「冒険者になる前に知り合った、傭兵時代の同期さ」

小説

【長編】

  • B.Mercenary (未完)

  •  00 / 01 / 02 / 03 / 04

    【中編】

  • in this hopeless world (完結)

  •  01 / 02 / 03

    【短編】

  • Just sleeping, probably

  • He has spoiled the whole thing
    ※ 流血注意

  • Nothing else matters
    ※ 流血注意

  • That's what they call me
  • 他ジャンル